|
カテゴリ
全体河北新報往復書簡 旅の思い出 その他 正しく知ろう!脳について 脳科学 未分類 以前の記事
2010年 09月2010年 08月 2010年 07月 2008年 10月 2008年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 ライフログ
おすすめキーワード(PR)
Skypeボタン
ファン
|
(「安全と健康」2010年6月号「正しく知ろう!脳について」掲載)
はじめに DNAの塩基配列に書かれた遺伝情報のレベルでは、ヒトとチンパンジーの違いは1%余りであるにもかかわらず、両者の隔たりは大きく感じられる。言葉を操ったり、文字を生みだすことができたのは、われわれの脳が著しく進化した結果である。ヒトの脳はその他の生物とはどのように異なるのだろうか? 共通の枠組みからの進化 第2話で、発生過程における中枢神経系の元は「神経管」といわれる構造であることを述べた。神経管はどの脊椎(せきつい)動物でも共通で、その起源は約5億年前に出現した原索動物であるホヤの幼生に遡(さかのぼ)る。その後進化してきた脊椎動物の脳は、どの生物でも基本構造は「脳幹」「小脳」「大脳」から成る。 魚類、両生類、爬虫(はちゅう)類では、反射や本能的な行動を司る脳幹が脳の大部分を占めている。小脳や大脳は小さく、魚類と両生類の大脳では、生きていくために必要な本能や感情を司(つかさど)る「大脳辺縁系(古皮質)」のみ認められる。爬虫類では大脳に「新皮質」がわずかに出現する。鳥類は飛行に関連して、身体のバランスを取る小脳が非常に大きく発達している。哺乳(ほにゅう)類ではとくに大脳の新皮質が発達し、「感覚野」「運動野」といった新しい機能を持つようになる。霊長類(サル類)では新皮質がさらに発達して「連合野」が出現し、より高度な認知や行動ができるようになる。ヒトでは、新皮質が大脳皮質の90%以上を占めている。 つまり、脳は、基本構造が変化したのではなく、新しい機能が付け加わるようにして進化してきたのである。 More 続きはこちらをクリック! (「安全と健康」2010年5月号「正しく知ろう!脳について」掲載)
はじめに かつて、脳細胞は3歳の時点が数のピークで、後は死んでいくだけと考えられていた。しかしながら、現在では、脳の特定の領域では、生涯にわたって脳細胞が産生される(これを「神経新生」と呼ぶ)ことが分かっている。しかも、このように日々新しく作られる神経細胞が記憶や学習に深くかかわることが知られるようになってきた。 More 続きはこちらをクリック! (「安全と健康」2010年4月号「正しく知ろう!脳について」掲載)
はじめに 私たちの意識や思考は記憶を基礎としている。てんかん治療のために、患者の露出した脳の一部に電気刺激を与えたカナダの脳外科医ペンフィールドは、患者が過去の記憶を鮮明に思い出すという驚くべき事実に遭遇した。このことは、記憶が脳の中に蓄えられていることを示すエピソードとしてよく知られている。では、記憶のしくみはどのようになっているのだろうか? More 続きはこちらをクリック!
(「安全と健康」3月号掲載「正しく知ろう!脳について」)
はじめに 前回は脳がどのように構築されるかについて紹介した。しかしながら、脳は生まれたときに完成しているのではなく、その後も環境からの影響によりダイナミックに変化していく。 シナプスの“刈り込み” 脳の中に配線された神経細胞の軸索は、適切な相手の神経細胞と結合することによってはじめて「神経回路」として機能できるようになる。この結合部は「シナプス」と呼ばれ、1つの神経細胞あたり1000〜10000個も形成される。生まれたばかりの赤ちゃんの脳では、樹状突起と呼ばれる入力部分が、まさに木の枝のように多数張りだしているのだが、やがてこの突起は必要に応じて「刈り込まれる」ことになる。これはどういうことかというと、まず多数の樹状突起上において多数の神経細胞との間に仮のシナプスがつくられる。シナプスは神経細胞と神経細胞の刺激の伝達部であり、神経回路が働くと、その刺激によって結合が強固なものになる。そうすると、働きの弱いシナプスが淘汰されていく。つまり、神経細胞の生き残りだけでなく、シナプスにも生存競争があり、淘汰されたシナプスがあった樹状突起が退化していくという訳である。 More 続きはこちらをクリック! (「安全と健康」2010年2月号「正しく知ろう!脳について」掲載)
はじめに 第一話では脳の中の細胞たちについて紹介した。今回は、どのようにして脳の細胞たちは生まれてくるのかについてお話ししよう。 始まりは“神経管” ヒトの始まりは卵子と精子が受精してできる1個の受精卵である。このたった1個の細胞が何度も何度も分裂して、約1週間後、数百の細胞からなる“胚(はい)”として子宮の壁に着床する。この胚は将来の身体を作る部分と、胎盤や胎児を包む膜になる部分に分かれる。身体を作る部分は、まず2層の細胞層となり、外側の「外胚葉(がいはいよう)」と内側の「内胚葉」に分かれる。外胚葉の一部の細胞は内胚葉との間に入り込んで「中胚葉」となる。大雑把(ざっぱ)に言って、外胚葉からはこのあとお話しする神経系と皮膚が作られ、中胚葉からは骨・筋肉・血液などが、内胚葉からは消化器や肺などが生みだされる。 受精後、約3週間までの間に、外胚葉の中心部が盛り上がって「神経管」という管が作られる。これが私たちの脳や脊髄(せきずい)、すなわち中枢神経系の基となる原基である。神経管の前方部は膨らんで脳になり、後方部が脊髄となる。身体全体が大きくなるとともに、神経管も長く、大きくなっていく。第5週までに前方部はさらに区画化されて前脳・中脳・後脳となり、第7週までには前脳はさらに将来の大脳皮質・大脳基底核注1)・海馬(かいば)注2)などを生みだす終脳と、視床や視床下部を生みだす間脳に分かれる(図)。第8週の時点で脳の基本的な枠組みは出来上がっているが、大脳皮質にはまだ皺(しわ)もなく、さらに膨大な数の細胞が産み出されていく。脳の多くの領域の神経細胞の産生は出生前までに終了する(ただし、海馬などでは一生涯、神経細胞が作られる。このお話はシリーズ後半で……)。その後、1月号で紹介したアストロサイトやオリゴデンドロサイトなどのグリア細胞が産生されるようになる。 More 続きはこちらをクリック! (「安全と健康」2010年1月号「正しく知ろう!脳について」掲載)
はじめに 巷(ちまた)では「脳科学」がブームといわれている。「脳トレ」は相変わらず人気があり、テレビのバラエティー番組でも脳について取り上げられることが多々あるようだ。そのような中で「右脳人間・左脳人間」などのように、似非(えせ)脳科学的な言説も溢(あふ)れている。この連載では、現役の基礎脳神経科学者の語る言葉として、脳についてのなるべく最先端かつ正しい知識をお伝えしていきたい。今回の第一話はまず「脳についての基礎知識」である。 人は高い知能を備えたために、「ただ生きるため」、「繁殖して子孫を残すため」以上のことにも血道を上げる動物だ。文化を生み出し科学技術を発展させることができたのも、高度な神経機能のなせる業(わざ)である。複雑な「こころ」のありようまで、現時点の脳科学ですべて説明できるとは筆者は考えていない。しかし脳について知ることによって、種々の感覚がどのように認知されるのか、記憶や学習はどんなメカニズムでなされるのか、それらが破綻するとどんな病気になるのか、脳を健やかに育(はぐく)み維持するにはどうしたらよいのか、そのようなことを理解できる。だが、そもそも人が脳について知りたがるのは、「われはどこからきてどこに行くのか」という根源的な問いを持っているからかもしれない。かつて哲学で議論された問題について、21世紀では脳科学によって挑戦しようとしている。 More 続きはこちらをクリック! 久しくこちらのサイト「大隅典子のエッセイ集」に原稿を載せていませんでしたが、今年は一般向けの連載も行っていますので、少しずつアップしていきます。
まずは、「安全と健康」という雑誌の連載で、脳についての短いエッセイです。
【岩波『科学』書評:心にのこる1冊のためのオリジナル原稿】
『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』 セミール・ゼキ著 河内十郎監訳 日本経済新聞社 2008年6月14日8時43分に岩手・宮城内陸地震が起きたとき、私の脳は睡眠と覚醒の狭間にいた。「宮城沖地震は37年周期で起きる」と聞いていたので、予震のような揺れを感じて「ついに、来たか!?」と飛び起きた。リビングのサイドボードに飾っている須恵器の壺が一番先に気になり、横には倒れたが無事だった壺を手で押さえている間、9階の自宅はかなり揺れ、書棚の上の方の本が何冊も床に落ちた。書棚に飾っていたモルフォ蝶の額も転落し、片側の翅2枚が外れてしまった。初めて香港に行ったときに求めた、光り物をいっぱいくっつけた瀬戸物の招き猫は、落ちて砕けた。1分くらい続いた揺れがようやく収まってみると、書棚は10センチ近く壁より前に移動していた。もちろん、下の方にはまだ何十冊も本があって、私が押してもびくともしないのだが。 今回、書評の依頼を受けて、どの本を取り上げようかと、ずっと悩んでいた。どうぜなら記念に、地震で動いた書棚にあったものからにしようと限定を加え、それでも最後の最後まで迷った結果、視覚認知科学者であるセミール・ゼキ博士の本書を選んだ。ちなみに、最後の最後まで残ったのは『美しき未完成 ノーベル賞女性科学者の回想』(リタ・レーヴィ=モンタルチーニ著、藤田恒夫、曽我津也子、赤沼のぞみ訳、平凡社)であるが、この本が次点となったのは、現在絶版になっているからである。 著者のセミール・ゼキ博士は英国ロンドン大学神経生物学の教授であり、サルの脳をモデルとして視覚情報処理に関する研究で著名な功績を挙げた方である。四半世紀にわたる膨大な研究成果と、ご自身の興味から、ゼキ博士は「神経美学」なるものを理解し、構築したいのだろうと想像する。すなわち、人はなぜ、美しいと感じるのか、という命題を、脳内で生じるフィジカルな事象から説明しようというチャレンジである。これがいかに難しいことであるかは、セミール・ゼキの関わる別の本『芸術と脳科学の対話——バルテュスとゼキによる本質的なものの探求』(バルテュス、セミール・ゼキ著、桑田光平訳、青土社)を読まれるとよいだろう。芸術家と脳科学者の間で、まったく噛み合わない「対話」が延々と続くのは、それなりに面白い。ゼキの立場は「美術と脳の機能は同一のものであり」「脳の働き、その中でも特に視覚脳の働きを知ることによって、生物学を基礎とする新しい美術・美術論のアウトラインを展開できる」と考えるところにある。象徴的な例を一つ挙げるとすれば、「今からおよそ五〇〇年前に、レオナルド・ダ・ヴィンチは『すべての色の組み合わせで最も心地よく感じられるのは、相対立する色から成り立っている場合である』と述べた。……しかしながら、それが真実であることは、今からわずか四〇年ほど前に、反対色特性が発見され、そこで初めて生理学的に証明されたのである。赤で興奮する視覚系の細胞は緑で抑制され、黄色で興奮する細胞は青で抑制され……(その逆もすべて正しいこと)が生理学的に確かめられたのである」(本書第1章より)。一方、バルテュスは「脳の働きを知らなくても、何ら問題なく新しい美術を展開できる」と納得し、実践している訳である。 一般的に哺乳類は嗅覚が発達した動物であるが、霊長類は嗅覚よりも視覚が優位となっている。ゼキに言わせれば「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」のだ。そして、「視覚とは、絶えざる変化を差し引き、物体を分類するために必要なもののみを抽出する能動的な過程(プロセス)である」と考えられる。そう、「分ける」ことことが「分かる」ことなのである。そして、「見る」という好意はきわめて能動的であり、私たちが見ている世界は、「外界の物理的現実だけではなく、脳の機構と脳の法則によって」も左右される。 本書では、カラヴァッジョからミケランジェロ、印象派からキュビズム、さらにはキネティック・アートまで、さまざまな作品が取り上げられているが、書評者の大好きなフェルメールについて触れよう。フェルメールは寡作ではあるが、どの絵も見る人に強烈な印象を残すのは、光と影、色使い、遠近法の用い方など、卓越した技術に基づくことは間違いない。初期の顕微鏡を製作したアントニー・ファン・レーウェンフックと親交があり、レーウェンフックの助けを借りてカメラ・オブスクラ(暗室箱カメラ)を用いていたという逸話は、研究の修行の出発点が光学顕微鏡によるスケッチだった者にとって忘れがたいものである。「フェルメールの青」と称される独特の美しい青色は、高価なラピスラズリを粉にして作った絵の具によるとされ、明るい黄色と見事な対比をなしている。さて、本書第4章で、ゼキ博士はフェルメールの絵画の持つ不思議な「心理学的な力」に着目している。『ヴァージナルの前に立つ女性』『楽譜を持つ紳士と少女』『音楽のレッスン』など、鑑賞者は誰かの部屋を覗き見しているような感覚に陥る。題材自体は、レンブラントなどにも扱われた日常生活であり、フェルメール独自のものではない。にもかかわらず、「心理的な力」があったからこそ、フェルメールの絵画は「人を惹きつけ、人の感情をかきたてる」とゼキ博士は考える。 では、そのような「心理的な力」とはどのようにして生まれているのか? ゼキ博士はその答えを、「曖昧さから生まれる恒常性」に求めている。『音楽のレッスン』には、ヴァージナルを弾いているらしい後ろ姿の女性の横に、男性がたたずんでいる。「この二人の間に何らかの関係があることは否定できない。しかしながら、男性は女性の夫なのか恋人なのか求婚者なのか友人なのか」、その二人の間でどんな会話が交わされているのか、鑑賞者の心にさまざまな可能性が浮かぶ。つまり、「フェルメールの作品には、脳の中に蓄積されている過去の出来事の記憶の中から多くのものを呼び起こす力が含まれている」のである。 同様の「曖昧さ」は、『手紙を書く婦人と召使い』や『婦人と召使い』の場合でも、描かれた人物が一人である作品、例えば『真珠を量る女』や『青衣の女』の場合でも感じられる。ちなみに、本書は上質の紙にこれらの美しい絵がカラー印刷されているのが嬉しい。いちいち、図録を持ち出さなくても、ゼキ博士のいわんとすることを確認することが可能である。「真珠を量る女」は何を考えているのか、複数の可能性が浮かび、その答えは謎に包まれる。女性の背後にある絵画「最後の審判」を「教訓」というアイコンとして捉える美術専門家はいるだろうが、そんなことを知らない一般の鑑賞者にとっては、「曖昧」な方がより魅力的である。フェルメールの計算され尽くした技術は、いかにもありそうな日常の「恒常性」を描き出し、それゆえ「曖昧さ」が際だつことによって、鑑賞者の想像力がかきたてられるのだ。 このような「曖昧さと恒常性」という観点において、ゼキ博士は、フェルメールとキュビズムの間に強い類似性を見出す。キュビズムについての画家の言葉を引用し、「いくつかの形は暗示的に示しておかなければならない。そうすることによって、鑑賞者の頭の中が、実際に形が誕生する特別の場所になるのである」という記載が、フェルメールの絵画についての説明として成り立つとする。 「恒常性」が脳の中でどのように成り立っているのかについては、まだ現在ほとんど理解されていない。一つ一つの形や色は厳密に言えば異なっていても「リンゴ」は「リンゴ」だと認識されるし、チワワもブルドックもゴールデンリトリーバーも同じ「イヌ」としてくくられるのは、それらのDNAを解析してみて初めて分かることではなく、直感的に理解される。小さな子供では、まだその能力は備わっていないことから、何らかの方法で獲得されていくものと考えられるが、それは一体、脳の中でどのように処理されているのだろう? 美に関して、私たちの周りには一体全体、知らないことだらけである。星の瞬きを、木々の緑を、滑らかな肌を、美しいと感じるのはなぜなのか? そこに合目的的な説明を加えるのは現時点でも可能であるが、脳の中でどんなフィジカルな事象が生じているのかは、まだ誰も知らない。
はじめに
「脳トレ」や「右脳・左脳」など、ここしばらく巷では「脳ブーム」と言われています。脳科学分野で研究する身としては、市民の関心が高いことは嬉しく、有り難いことではありますが、その分、「科学者として、研究成果をどのように伝えるか」については責任も大きいと感じています。本稿では、脳科学の現状からみた未来について、筆者の思うところについて述べたいと思います。 生命科学の中の脳科学 筆者は学問のトレーニングの最初を「発生生物学」という分野において行いました。当時は「顔の発生」という茫漠とした研究領域の中で、眼や鼻がどのようにして形成されるかについての研究を行っていました(「目鼻立ち」と言われるように、眼や鼻が形成されると、のっぺらぼうだった頭にようやく「顔」が出来るのです)。その当時、指導教授の話された「顔は中枢の表現型」という言葉に強く惹かれたせいか、気がつくと数年後には「脳の発生」を研究していました。というのは、「眼や鼻を作るのに重要な遺伝子(その名前はPax6<パックスシックス>という)が、脳でも非常に大切な働きをしていると予測されたからです。 生命科学Life scienceという学問領域においては、遺伝子や分子が共通言語となっています。つまり、扱う生命現象は異なっても、そこで働く遺伝子や、遺伝子によって作られるタンパク質、酵素と基質の反応(酵素も遺伝子によって作られる)などには、普遍性があり、基本的な原理原則があるのです。したがって、Pax6という分子を鍵として眼・鼻の形成を研究していた者が、脳の研究に入っていくことは、さほど難しいことではありません。 実は筆者は、高校時代に心理学にも興味があったのですが、当時は心の問題を遺伝子レベルで考えることなど絶対にありえないと思っていました。したがって、迷うことなく理系の大学に進学しました。それが今や、遺伝子がどこで働いているのかを可視化する技術や、遺伝子の働きを人為的に改変する技術が開発され、浸透し、「心のあり方」について研究するための手段の一つにもなりつつあります。数年前には、なんと「言語や発話に関わる可能性が高い遺伝子」(その名前はFoxP2<フォックスピーツー>と言います)も報告されました。 現在主流な生命科学のお作法は「還元論」ではありますが、心を生みだす脳の仕組みやでき方について細かく分けて調べてみよう、というアプローチは「神経生物学」「神経発生学」などと呼ばれ、脳科学の中でメジャーな位置を占めています。つまり、生命科学という分野では、心や脳の問題を(とりあえず)遺伝子や分子や細胞のレベルに落とし込んで、そこから得られる情報を受け止め、可能であれば神経疾患や精神疾患などの治療の糸口にしたいと考えているのです。 哲学に迫る脳科学 誤解されがちなのですが、上記のような「生命科学の還元論」によって心がすべて解き明かされるとは研究者は思っていません。さまざまな階層におけるシステム的理解や統合的アプローチが必須であることは間違いないことです。ですが、現代の脳科学は、かつて哲学で扱われることが一般的であったような命題にも迫ろうとしていると思われます。 例えば、私たちの身体は、細胞レベルで見たときに1ヶ月くらいの周期で入れ替わっています。身体の一部である脳は、これまでその「例外」と思われてきました。つまり、神経細胞は主として胎生期に産生され、3歳くらいに数のピークがあり、後は減っていくだけと筆者自身も大学時代に教えられたのですが、実はそうではないことが15年ほど前から明らかになってきました。記憶の入り口と呼ばれる海馬などの脳領域には「神経幹細胞」が存在し、毎日新しく神経細胞が作られるのです。若いラットでは一日あたり約8000個もの神経細胞が生まれています。このうちすべてが生き残るのではありませんが、1割程度は定着し、既存の神経回路に組み込まれます。分子のレベルでは、さらに短い周期で入れ替わりがあると考えられます。これまでの神経生理学では、記憶の素過程が神経細胞(ニューロン)の構成する回路や、神経細胞同士の結合部(シナプス)の強さに求められると考えてきました。では、細胞レベルでは異なるにも関わらず、どうして「昨日の自分と今日の自分は同じ自分であるといえるのか?」 この問題を解くことは、「自己・自我とは?」という明らかにする根源ともいえるでしょう。なお、ここでも、「昨日の自分と今日の自分は同じ自分である」と思えない状態が、精神疾患のある種の症状であると捉えることもできますので、治療への路につながることも期待されます。 しばらく前に、哲学の先生から次のような難題を出されました。「例えば、<憎い>という感情にある状態の脳が、画像レベルでも分子レベルでも、何か物理的・定量的に記載されたとして、では、ある人が誰かを<憎んだ>結果、相手に向けて拳銃の引き金を引いたとします。この場合に、拳銃で撃った人には自分の脳の物質的状態をコントロールすることはできず、<自由意志>はなかったと見なせるので、罪には問われない。脳科学が教えることは、こういう意味でしょうか?」 普通の市民も、ナイーブな脳科学者も、「そんなことはありえない」と思っています。どんなに憎くても辛くても、他人を殺すことは悪であると教えられてきたはずです。むしろ、これからの哲学や教育学こそが、脳科学の成果を取り入れた上で、「徳とは何か?」「より良く生きるにはどうしたらよいか?」という命題に正面から取り組んで頂きたいと思います。 脳科学における遺伝と遺伝子 「肥満の遺伝子」「糖尿病の遺伝子」「癌になりやすい家系」などについての情報が巷には溢れています。一つの遺伝子だけで肥満や糖尿病を引き起こすことはできないのですが、マスメディアの見出しではウケを狙って、どうしてもこうなります。では、「統合失調症(精神分裂病)の遺伝子」「躁鬱病の遺伝子」というと、この言葉の受け取られ方には気を遣わなければなりません。それは「心の病気」を扱うことの難しさによります。 例えば統合失調症は、ゲノム(遺伝子のセット)が同一な一卵性双生児同士の間での一致率が40-60%と言われています。つまり、一卵性双生児の片方の方が発症した場合に、もう片方の方も発症する確率が約50%ということです(一覧性双生児の方の50%が統合失調症を発症する、という意味ではありません。念のため)。このことは、「統合失調症には<遺伝>が関わる。ただし、<遺伝>だけでは決まらない」ことを意味します。肥満、糖尿病などの場合と同じですね。なぜなら、遺伝子や遺伝的プログラムの働き方には、生活習慣や個人の経験などが大きく関わるからです。さまざまな遺伝子の機能が分かり、個人のゲノム情報が簡便に分かる時代になると、「自分の運命がすべてわかってしまい、個人の努力は意味が無くなる」と危惧される方もおられますが、そんなことはありません。 日本人はウェットな精神性なためか、「遺伝・遺伝子」がタブー視される傾向にあると感じています。例えば自分の子供が重い病気に罹ったとして、遺伝子診断により、その原因がある遺伝子に生じた変異によるためだと判明すると、欧米の親御さんなら「あぁ良かった、それならば自分たちの育て方のせいではなかった」と安堵するのに対し、日本の場合には「この子に遺伝子の変異が生じたのは私のせいではないか? ご先祖様に申し訳ない」と嘆かれるといいます。ですので、遺伝カウンセリングがなかなか難しいのです。 日本におけるこのような状況は、早急に改善しなければならないと思います。脳科学の中で遺伝子を扱う研究者が、その成果を社会に発信する際にきちんとした説明をしていくことはもちろんですが、おそらく小学校レベルの理科や倫理の教育の中に、自然なかたちで「遺伝・遺伝子」が取り入れられる必要があります。DNA鑑定により個人の遺伝子情報を得る時代は、すぐそこまで来ています。 脳科学と倫理 CTやPET、fMRIなど、非侵襲的に脳の静的・動的状態をスキャンすることが可能になったことは、とくに認知脳科学といわれる学問領域を大いに発展させました。しかしながら、上に述べた遺伝子の問題と同様に、個人の脳画像の扱いというのも倫理的な問題を孕んでいます。 倫理的な問題の一つは、個人の特質と脳画像のデータが膨大に蓄積していくと、例えばIQの高い(高くなるであろう)子供の脳画像の特徴が分かることになり、就学前からそれを知りたいと思う方が増えるかもしれません。私は個人的には、初等教育でもより「習熟度別」の教育が為されるべきと思っていますが、このようなデータが教育上の差別につながってほしくはありません。また、悪質な性犯罪を繰り返す人の脳画像のデータが揃ってくると、初犯で捕まったときに脳画像を撮ることを要求され、その結果で再犯の可能性が予測されて処罰が変わるというような可能性も考えられます。あるいは、健常人のボランティアとして脳画像を撮った際に、腫瘍が見つかったとしたら、それは誰がどのように本人に伝えるのか、という問題もかなり現実的と思われます。これから、私たちはこういった脳画像データとどのように付き合っていくのか、考えなければならない状況に直面しているのです。 別の側面として、脳科学と工学が融合した分野における倫理的問題があります。脊髄損傷などを負って手足を思うように動かせなくなってしまった方に、脳と機械を直接繋いで、モニタ上でカーソルを動かしていろいろなスイッチを押すなどの機能を与えるブレイン・マシーン・インターフェース(BMI)の技術は、ここ数年の間に画期的に進んできました。あるいは、人間が本来持っている力よりもずっと大きな力で重い物を持ち上げたりすることができれば、災害救助などに役立つと考えられることから、パワー・スーツなどが開発されていますが、街で歩いている人がパワー・スーツの威力を悪用すれば、強力な殺傷力が発揮されることになります。これらの脳科学に関連する技術も、今後、社会の中でどのようなルールで実用化していくのかを見極めなければなりません。あるいは、アイザック・アシモフが予言した人とロボットが共存する時代も、いよいよ現実味を帯びてきました。ロボットと人の境界も連続的になる可能性があり、そのような世界における生き方の規範が求められることになるでしょう。 社会の中の脳科学 人間の力が自然に対して相対的に弱かった時代に、宗教はそんな弱い人間の気持ちを支え、集団として生きる力をつけるために生まれました。文明が興り、産業が発展し、人の生活のあり方は、たかだか2000年ほどの間にも大きく変化し、また最近、そのスピードはさらに速くなっているように感じます。そんな社会において、「似非科学」がいわば宗教的な癒しの役割を果たすことによって横行していることが気になります。 例えば、水の結晶はさまざまな条件によって凝固し、見事な美しさを見せますが、それは、人が「綺麗だね、可愛いね」と話しかけるからではありません。「綺麗だね」と、ポジティブな言葉を発すること自体は、その人にとってヒーリング効果があると予測できますが(必要があれば、脳画像などで測定することができるでしょう)、それが、水が固体に変化するときに影響するとは思えません。逆に、野に咲く花がどれも綺麗なように、どんな結晶であれ、気をつけて見れば美しさを発見することは可能でしょう。 脳科学が目指すところは、おそらく究極には人の心の理解だと思えますので、研究対象はどうしても普段の人の生活に近くなります。そのことが、似非科学へも近くなりやすい原因を生みます。「右脳型・左脳型」なども、言語野がほとんどの人で大脳の左半球に存在することをもとに膨らました、いわばファンタジーです。絵を描くこと、音楽を奏でること、あるいは言語処理、論理処理、皆、脳のいろいろな部分を使っていることは間違いなく、どちらかが優位かどうかについても個人差も多々あります。神経伝達物質の一種であるGABAは、確かに「抑制性ニューロン」において働いているのは、脳科学者なら誰でも知っている事実ですが、「GABA入りチョコレート」を食べることが本当にストレスを緩和するのかについては、科学的データが十分とは思えません。さらに重要なことに、臨界期の成立にこのGABAが関わるという最新のデータがありますが、だからといって子供にGABAを与えれば、臨界期が伸びるかどうかは、また別の問題です。 おそらく、これまで以上に、脳科学の成果について、できるだけ正確に、分かりやすく一般市民に伝えることが必要だと思われます。「正確に」と「分かりやすく」は、なかなか同時に達成することが難しいのですが、脳科学研究者自身が語るだけではなく、市民とのインターフェースとして活躍する「科学コミュニケーター」や「インタープリター」の存在が、今後より重要になると考えられます。研究者が「熱い思いを語る」ことも大切ですが、コミュニケーションというのは相手があってのことです。聴衆に「伝わる」ための工夫やテクニックも必要でしょう。 おわりに:脳科学を活かす社会へ向けて 脳科学の成果は私たちの生活をより良く充実するものであり、教育や福祉などの分野においてより良く活かされるべきものと思われます。とくに、脳の発生や発達に関する知見は重要であり、その応用面を考えた場合には、遺伝子や分子レベルでの知識が役立つことであろうことは疑いもありません。研究者からの情報発信も大切ですし、既存のメディアを通じてだけの情報提供だけではなく、今まさに専門家として社会とのインターフェースになる人材が求められていると感じます。 (月刊公明 第29号用オリジナル原稿)
|


