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いろいろな原稿を載せる予定です
by norikoosumi
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正しく知ろう!脳について:原稿アップしていきます

久しくこちらのサイト「大隅典子のエッセイ集」に原稿を載せていませんでしたが、今年は一般向けの連載も行っていますので、少しずつアップしていきます。
まずは、「安全と健康」という雑誌の連載で、脳についての短いエッセイです。
# by norikoosumi | 2010-07-26 10:46 | 正しく知ろう!脳について

『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』

【岩波『科学』書評:心にのこる1冊のためのオリジナル原稿】
『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』
セミール・ゼキ著
河内十郎監訳
日本経済新聞社

 2008年6月14日8時43分に岩手・宮城内陸地震が起きたとき、私の脳は睡眠と覚醒の狭間にいた。「宮城沖地震は37年周期で起きる」と聞いていたので、予震のような揺れを感じて「ついに、来たか!?」と飛び起きた。リビングのサイドボードに飾っている須恵器の壺が一番先に気になり、横には倒れたが無事だった壺を手で押さえている間、9階の自宅はかなり揺れ、書棚の上の方の本が何冊も床に落ちた。書棚に飾っていたモルフォ蝶の額も転落し、片側の翅2枚が外れてしまった。初めて香港に行ったときに求めた、光り物をいっぱいくっつけた瀬戸物の招き猫は、落ちて砕けた。1分くらい続いた揺れがようやく収まってみると、書棚は10センチ近く壁より前に移動していた。もちろん、下の方にはまだ何十冊も本があって、私が押してもびくともしないのだが。
 今回、書評の依頼を受けて、どの本を取り上げようかと、ずっと悩んでいた。どうぜなら記念に、地震で動いた書棚にあったものからにしようと限定を加え、それでも最後の最後まで迷った結果、視覚認知科学者であるセミール・ゼキ博士の本書を選んだ。ちなみに、最後の最後まで残ったのは『美しき未完成 ノーベル賞女性科学者の回想』(リタ・レーヴィ=モンタルチーニ著、藤田恒夫、曽我津也子、赤沼のぞみ訳、平凡社)であるが、この本が次点となったのは、現在絶版になっているからである。
 著者のセミール・ゼキ博士は英国ロンドン大学神経生物学の教授であり、サルの脳をモデルとして視覚情報処理に関する研究で著名な功績を挙げた方である。四半世紀にわたる膨大な研究成果と、ご自身の興味から、ゼキ博士は「神経美学」なるものを理解し、構築したいのだろうと想像する。すなわち、人はなぜ、美しいと感じるのか、という命題を、脳内で生じるフィジカルな事象から説明しようというチャレンジである。これがいかに難しいことであるかは、セミール・ゼキの関わる別の本『芸術と脳科学の対話——バルテュスとゼキによる本質的なものの探求』(バルテュス、セミール・ゼキ著、桑田光平訳、青土社)を読まれるとよいだろう。芸術家と脳科学者の間で、まったく噛み合わない「対話」が延々と続くのは、それなりに面白い。ゼキの立場は「美術と脳の機能は同一のものであり」「脳の働き、その中でも特に視覚脳の働きを知ることによって、生物学を基礎とする新しい美術・美術論のアウトラインを展開できる」と考えるところにある。象徴的な例を一つ挙げるとすれば、「今からおよそ五〇〇年前に、レオナルド・ダ・ヴィンチは『すべての色の組み合わせで最も心地よく感じられるのは、相対立する色から成り立っている場合である』と述べた。……しかしながら、それが真実であることは、今からわずか四〇年ほど前に、反対色特性が発見され、そこで初めて生理学的に証明されたのである。赤で興奮する視覚系の細胞は緑で抑制され、黄色で興奮する細胞は青で抑制され……(その逆もすべて正しいこと)が生理学的に確かめられたのである」(本書第1章より)。一方、バルテュスは「脳の働きを知らなくても、何ら問題なく新しい美術を展開できる」と納得し、実践している訳である。
 一般的に哺乳類は嗅覚が発達した動物であるが、霊長類は嗅覚よりも視覚が優位となっている。ゼキに言わせれば「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」のだ。そして、「視覚とは、絶えざる変化を差し引き、物体を分類するために必要なもののみを抽出する能動的な過程(プロセス)である」と考えられる。そう、「分ける」ことことが「分かる」ことなのである。そして、「見る」という好意はきわめて能動的であり、私たちが見ている世界は、「外界の物理的現実だけではなく、脳の機構と脳の法則によって」も左右される。
 本書では、カラヴァッジョからミケランジェロ、印象派からキュビズム、さらにはキネティック・アートまで、さまざまな作品が取り上げられているが、書評者の大好きなフェルメールについて触れよう。フェルメールは寡作ではあるが、どの絵も見る人に強烈な印象を残すのは、光と影、色使い、遠近法の用い方など、卓越した技術に基づくことは間違いない。初期の顕微鏡を製作したアントニー・ファン・レーウェンフックと親交があり、レーウェンフックの助けを借りてカメラ・オブスクラ(暗室箱カメラ)を用いていたという逸話は、研究の修行の出発点が光学顕微鏡によるスケッチだった者にとって忘れがたいものである。「フェルメールの青」と称される独特の美しい青色は、高価なラピスラズリを粉にして作った絵の具によるとされ、明るい黄色と見事な対比をなしている。さて、本書第4章で、ゼキ博士はフェルメールの絵画の持つ不思議な「心理学的な力」に着目している。『ヴァージナルの前に立つ女性』『楽譜を持つ紳士と少女』『音楽のレッスン』など、鑑賞者は誰かの部屋を覗き見しているような感覚に陥る。題材自体は、レンブラントなどにも扱われた日常生活であり、フェルメール独自のものではない。にもかかわらず、「心理的な力」があったからこそ、フェルメールの絵画は「人を惹きつけ、人の感情をかきたてる」とゼキ博士は考える。
 では、そのような「心理的な力」とはどのようにして生まれているのか? ゼキ博士はその答えを、「曖昧さから生まれる恒常性」に求めている。『音楽のレッスン』には、ヴァージナルを弾いているらしい後ろ姿の女性の横に、男性がたたずんでいる。「この二人の間に何らかの関係があることは否定できない。しかしながら、男性は女性の夫なのか恋人なのか求婚者なのか友人なのか」、その二人の間でどんな会話が交わされているのか、鑑賞者の心にさまざまな可能性が浮かぶ。つまり、「フェルメールの作品には、脳の中に蓄積されている過去の出来事の記憶の中から多くのものを呼び起こす力が含まれている」のである。
 同様の「曖昧さ」は、『手紙を書く婦人と召使い』や『婦人と召使い』の場合でも、描かれた人物が一人である作品、例えば『真珠を量る女』や『青衣の女』の場合でも感じられる。ちなみに、本書は上質の紙にこれらの美しい絵がカラー印刷されているのが嬉しい。いちいち、図録を持ち出さなくても、ゼキ博士のいわんとすることを確認することが可能である。「真珠を量る女」は何を考えているのか、複数の可能性が浮かび、その答えは謎に包まれる。女性の背後にある絵画「最後の審判」を「教訓」というアイコンとして捉える美術専門家はいるだろうが、そんなことを知らない一般の鑑賞者にとっては、「曖昧」な方がより魅力的である。フェルメールの計算され尽くした技術は、いかにもありそうな日常の「恒常性」を描き出し、それゆえ「曖昧さ」が際だつことによって、鑑賞者の想像力がかきたてられるのだ。
 このような「曖昧さと恒常性」という観点において、ゼキ博士は、フェルメールとキュビズムの間に強い類似性を見出す。キュビズムについての画家の言葉を引用し、「いくつかの形は暗示的に示しておかなければならない。そうすることによって、鑑賞者の頭の中が、実際に形が誕生する特別の場所になるのである」という記載が、フェルメールの絵画についての説明として成り立つとする。
 「恒常性」が脳の中でどのように成り立っているのかについては、まだ現在ほとんど理解されていない。一つ一つの形や色は厳密に言えば異なっていても「リンゴ」は「リンゴ」だと認識されるし、チワワもブルドックもゴールデンリトリーバーも同じ「イヌ」としてくくられるのは、それらのDNAを解析してみて初めて分かることではなく、直感的に理解される。小さな子供では、まだその能力は備わっていないことから、何らかの方法で獲得されていくものと考えられるが、それは一体、脳の中でどのように処理されているのだろう? 
 美に関して、私たちの周りには一体全体、知らないことだらけである。星の瞬きを、木々の緑を、滑らかな肌を、美しいと感じるのはなぜなのか? そこに合目的的な説明を加えるのは現時点でも可能であるが、脳の中でどんなフィジカルな事象が生じているのかは、まだ誰も知らない。
# by norikoosumi | 2008-10-05 19:30 | その他

社会の中の脳科学

はじめに
 「脳トレ」や「右脳・左脳」など、ここしばらく巷では「脳ブーム」と言われています。脳科学分野で研究する身としては、市民の関心が高いことは嬉しく、有り難いことではありますが、その分、「科学者として、研究成果をどのように伝えるか」については責任も大きいと感じています。本稿では、脳科学の現状からみた未来について、筆者の思うところについて述べたいと思います。

生命科学の中の脳科学
 筆者は学問のトレーニングの最初を「発生生物学」という分野において行いました。当時は「顔の発生」という茫漠とした研究領域の中で、眼や鼻がどのようにして形成されるかについての研究を行っていました(「目鼻立ち」と言われるように、眼や鼻が形成されると、のっぺらぼうだった頭にようやく「顔」が出来るのです)。その当時、指導教授の話された「顔は中枢の表現型」という言葉に強く惹かれたせいか、気がつくと数年後には「脳の発生」を研究していました。というのは、「眼や鼻を作るのに重要な遺伝子(その名前はPax6<パックスシックス>という)が、脳でも非常に大切な働きをしていると予測されたからです。
 生命科学Life scienceという学問領域においては、遺伝子や分子が共通言語となっています。つまり、扱う生命現象は異なっても、そこで働く遺伝子や、遺伝子によって作られるタンパク質、酵素と基質の反応(酵素も遺伝子によって作られる)などには、普遍性があり、基本的な原理原則があるのです。したがって、Pax6という分子を鍵として眼・鼻の形成を研究していた者が、脳の研究に入っていくことは、さほど難しいことではありません。
 実は筆者は、高校時代に心理学にも興味があったのですが、当時は心の問題を遺伝子レベルで考えることなど絶対にありえないと思っていました。したがって、迷うことなく理系の大学に進学しました。それが今や、遺伝子がどこで働いているのかを可視化する技術や、遺伝子の働きを人為的に改変する技術が開発され、浸透し、「心のあり方」について研究するための手段の一つにもなりつつあります。数年前には、なんと「言語や発話に関わる可能性が高い遺伝子」(その名前はFoxP2<フォックスピーツー>と言います)も報告されました。
 現在主流な生命科学のお作法は「還元論」ではありますが、心を生みだす脳の仕組みやでき方について細かく分けて調べてみよう、というアプローチは「神経生物学」「神経発生学」などと呼ばれ、脳科学の中でメジャーな位置を占めています。つまり、生命科学という分野では、心や脳の問題を(とりあえず)遺伝子や分子や細胞のレベルに落とし込んで、そこから得られる情報を受け止め、可能であれば神経疾患や精神疾患などの治療の糸口にしたいと考えているのです。

哲学に迫る脳科学
 誤解されがちなのですが、上記のような「生命科学の還元論」によって心がすべて解き明かされるとは研究者は思っていません。さまざまな階層におけるシステム的理解や統合的アプローチが必須であることは間違いないことです。ですが、現代の脳科学は、かつて哲学で扱われることが一般的であったような命題にも迫ろうとしていると思われます。
 例えば、私たちの身体は、細胞レベルで見たときに1ヶ月くらいの周期で入れ替わっています。身体の一部である脳は、これまでその「例外」と思われてきました。つまり、神経細胞は主として胎生期に産生され、3歳くらいに数のピークがあり、後は減っていくだけと筆者自身も大学時代に教えられたのですが、実はそうではないことが15年ほど前から明らかになってきました。記憶の入り口と呼ばれる海馬などの脳領域には「神経幹細胞」が存在し、毎日新しく神経細胞が作られるのです。若いラットでは一日あたり約8000個もの神経細胞が生まれています。このうちすべてが生き残るのではありませんが、1割程度は定着し、既存の神経回路に組み込まれます。分子のレベルでは、さらに短い周期で入れ替わりがあると考えられます。これまでの神経生理学では、記憶の素過程が神経細胞(ニューロン)の構成する回路や、神経細胞同士の結合部(シナプス)の強さに求められると考えてきました。では、細胞レベルでは異なるにも関わらず、どうして「昨日の自分と今日の自分は同じ自分であるといえるのか?」 この問題を解くことは、「自己・自我とは?」という明らかにする根源ともいえるでしょう。なお、ここでも、「昨日の自分と今日の自分は同じ自分である」と思えない状態が、精神疾患のある種の症状であると捉えることもできますので、治療への路につながることも期待されます。
 しばらく前に、哲学の先生から次のような難題を出されました。「例えば、<憎い>という感情にある状態の脳が、画像レベルでも分子レベルでも、何か物理的・定量的に記載されたとして、では、ある人が誰かを<憎んだ>結果、相手に向けて拳銃の引き金を引いたとします。この場合に、拳銃で撃った人には自分の脳の物質的状態をコントロールすることはできず、<自由意志>はなかったと見なせるので、罪には問われない。脳科学が教えることは、こういう意味でしょうか?」 普通の市民も、ナイーブな脳科学者も、「そんなことはありえない」と思っています。どんなに憎くても辛くても、他人を殺すことは悪であると教えられてきたはずです。むしろ、これからの哲学や教育学こそが、脳科学の成果を取り入れた上で、「徳とは何か?」「より良く生きるにはどうしたらよいか?」という命題に正面から取り組んで頂きたいと思います。

脳科学における遺伝と遺伝子
 「肥満の遺伝子」「糖尿病の遺伝子」「癌になりやすい家系」などについての情報が巷には溢れています。一つの遺伝子だけで肥満や糖尿病を引き起こすことはできないのですが、マスメディアの見出しではウケを狙って、どうしてもこうなります。では、「統合失調症(精神分裂病)の遺伝子」「躁鬱病の遺伝子」というと、この言葉の受け取られ方には気を遣わなければなりません。それは「心の病気」を扱うことの難しさによります。
 例えば統合失調症は、ゲノム(遺伝子のセット)が同一な一卵性双生児同士の間での一致率が40-60%と言われています。つまり、一卵性双生児の片方の方が発症した場合に、もう片方の方も発症する確率が約50%ということです(一覧性双生児の方の50%が統合失調症を発症する、という意味ではありません。念のため)。このことは、「統合失調症には<遺伝>が関わる。ただし、<遺伝>だけでは決まらない」ことを意味します。肥満、糖尿病などの場合と同じですね。なぜなら、遺伝子や遺伝的プログラムの働き方には、生活習慣や個人の経験などが大きく関わるからです。さまざまな遺伝子の機能が分かり、個人のゲノム情報が簡便に分かる時代になると、「自分の運命がすべてわかってしまい、個人の努力は意味が無くなる」と危惧される方もおられますが、そんなことはありません。
 日本人はウェットな精神性なためか、「遺伝・遺伝子」がタブー視される傾向にあると感じています。例えば自分の子供が重い病気に罹ったとして、遺伝子診断により、その原因がある遺伝子に生じた変異によるためだと判明すると、欧米の親御さんなら「あぁ良かった、それならば自分たちの育て方のせいではなかった」と安堵するのに対し、日本の場合には「この子に遺伝子の変異が生じたのは私のせいではないか? ご先祖様に申し訳ない」と嘆かれるといいます。ですので、遺伝カウンセリングがなかなか難しいのです。
 日本におけるこのような状況は、早急に改善しなければならないと思います。脳科学の中で遺伝子を扱う研究者が、その成果を社会に発信する際にきちんとした説明をしていくことはもちろんですが、おそらく小学校レベルの理科や倫理の教育の中に、自然なかたちで「遺伝・遺伝子」が取り入れられる必要があります。DNA鑑定により個人の遺伝子情報を得る時代は、すぐそこまで来ています。

脳科学と倫理
 CTやPET、fMRIなど、非侵襲的に脳の静的・動的状態をスキャンすることが可能になったことは、とくに認知脳科学といわれる学問領域を大いに発展させました。しかしながら、上に述べた遺伝子の問題と同様に、個人の脳画像の扱いというのも倫理的な問題を孕んでいます。
 倫理的な問題の一つは、個人の特質と脳画像のデータが膨大に蓄積していくと、例えばIQの高い(高くなるであろう)子供の脳画像の特徴が分かることになり、就学前からそれを知りたいと思う方が増えるかもしれません。私は個人的には、初等教育でもより「習熟度別」の教育が為されるべきと思っていますが、このようなデータが教育上の差別につながってほしくはありません。また、悪質な性犯罪を繰り返す人の脳画像のデータが揃ってくると、初犯で捕まったときに脳画像を撮ることを要求され、その結果で再犯の可能性が予測されて処罰が変わるというような可能性も考えられます。あるいは、健常人のボランティアとして脳画像を撮った際に、腫瘍が見つかったとしたら、それは誰がどのように本人に伝えるのか、という問題もかなり現実的と思われます。これから、私たちはこういった脳画像データとどのように付き合っていくのか、考えなければならない状況に直面しているのです。
 別の側面として、脳科学と工学が融合した分野における倫理的問題があります。脊髄損傷などを負って手足を思うように動かせなくなってしまった方に、脳と機械を直接繋いで、モニタ上でカーソルを動かしていろいろなスイッチを押すなどの機能を与えるブレイン・マシーン・インターフェース(BMI)の技術は、ここ数年の間に画期的に進んできました。あるいは、人間が本来持っている力よりもずっと大きな力で重い物を持ち上げたりすることができれば、災害救助などに役立つと考えられることから、パワー・スーツなどが開発されていますが、街で歩いている人がパワー・スーツの威力を悪用すれば、強力な殺傷力が発揮されることになります。これらの脳科学に関連する技術も、今後、社会の中でどのようなルールで実用化していくのかを見極めなければなりません。あるいは、アイザック・アシモフが予言した人とロボットが共存する時代も、いよいよ現実味を帯びてきました。ロボットと人の境界も連続的になる可能性があり、そのような世界における生き方の規範が求められることになるでしょう。

社会の中の脳科学
 人間の力が自然に対して相対的に弱かった時代に、宗教はそんな弱い人間の気持ちを支え、集団として生きる力をつけるために生まれました。文明が興り、産業が発展し、人の生活のあり方は、たかだか2000年ほどの間にも大きく変化し、また最近、そのスピードはさらに速くなっているように感じます。そんな社会において、「似非科学」がいわば宗教的な癒しの役割を果たすことによって横行していることが気になります。
 例えば、水の結晶はさまざまな条件によって凝固し、見事な美しさを見せますが、それは、人が「綺麗だね、可愛いね」と話しかけるからではありません。「綺麗だね」と、ポジティブな言葉を発すること自体は、その人にとってヒーリング効果があると予測できますが(必要があれば、脳画像などで測定することができるでしょう)、それが、水が固体に変化するときに影響するとは思えません。逆に、野に咲く花がどれも綺麗なように、どんな結晶であれ、気をつけて見れば美しさを発見することは可能でしょう。
 脳科学が目指すところは、おそらく究極には人の心の理解だと思えますので、研究対象はどうしても普段の人の生活に近くなります。そのことが、似非科学へも近くなりやすい原因を生みます。「右脳型・左脳型」なども、言語野がほとんどの人で大脳の左半球に存在することをもとに膨らました、いわばファンタジーです。絵を描くこと、音楽を奏でること、あるいは言語処理、論理処理、皆、脳のいろいろな部分を使っていることは間違いなく、どちらかが優位かどうかについても個人差も多々あります。神経伝達物質の一種であるGABAは、確かに「抑制性ニューロン」において働いているのは、脳科学者なら誰でも知っている事実ですが、「GABA入りチョコレート」を食べることが本当にストレスを緩和するのかについては、科学的データが十分とは思えません。さらに重要なことに、臨界期の成立にこのGABAが関わるという最新のデータがありますが、だからといって子供にGABAを与えれば、臨界期が伸びるかどうかは、また別の問題です。
 おそらく、これまで以上に、脳科学の成果について、できるだけ正確に、分かりやすく一般市民に伝えることが必要だと思われます。「正確に」と「分かりやすく」は、なかなか同時に達成することが難しいのですが、脳科学研究者自身が語るだけではなく、市民とのインターフェースとして活躍する「科学コミュニケーター」や「インタープリター」の存在が、今後より重要になると考えられます。研究者が「熱い思いを語る」ことも大切ですが、コミュニケーションというのは相手があってのことです。聴衆に「伝わる」ための工夫やテクニックも必要でしょう。

おわりに:脳科学を活かす社会へ向けて
 脳科学の成果は私たちの生活をより良く充実するものであり、教育や福祉などの分野においてより良く活かされるべきものと思われます。とくに、脳の発生や発達に関する知見は重要であり、その応用面を考えた場合には、遺伝子や分子レベルでの知識が役立つことであろうことは疑いもありません。研究者からの情報発信も大切ですし、既存のメディアを通じてだけの情報提供だけではなく、今まさに専門家として社会とのインターフェースになる人材が求められていると感じます。
(月刊公明 第29号用オリジナル原稿)
# by norikoosumi | 2008-10-05 17:53 | その他

国の礎は人ー科学技術人材を育成する施策についてー

国の礎は人−−科学技術人材を育成する施策について−−

【はじめに】
 第3期科学技術基本計画(平成18-22年度)において「モノから人へ」というキャッチフレーズが掲げられた。これを受けて、「科学技術システム改革」として「人材の育成、確保、活躍の促進」という目標が立てられ、具体的な施策が開始された。本稿では、文部科学省の人材委員会等において科学技術人材育成に関する助言等を行ってきた経験をもとに、このような施策のいくつかを紹介し、第4期に向けた人材育成のあり方の展望について論じたい。なお、筆者は神経科学を専門とするために、取り上げる具体例がややライフサイエンス系寄りであることについて、ご容赦頂ければ幸いである。

【若手研究者の自立支援】
 米国のアカデミアにおけるキャリアパスでは、学部、大学院の後、ポスドクを経てAssistant Professorの地位に就くのが通常である。大学院を修了するには、早くて3年程度だが、いわゆるdefense(学位審査会)を受けるのに達しなくて7年かかるというような人もいる。ポスドクは早くて2年程度、second postdocを行うことも多いが、Assistant Professorの職を得られなければノン・アカデミアのキャリアに移る人も多い。
 日本では、学部、大学院、ポスドクの後のポジションとしては、助教(かつての助手)が一般的であるが、日本の「助教」のポジションは「教授」の主催する研究室のjunior faculty staffという位置付けである。これに対し、米国のAssistant ProfessorはいわゆるPrincipal Investigator (PI)と呼ばれ、責任者として扱われる。たいていのAssistant Professorはいわゆるtenure trackに載っていて、通常、7年程度の期間の間にtenure position(Associate ProfessorやFull Professor)を得るべく熾烈な戦いに挑むことになる。
 日本でも若手研究者の活躍を促進するために、その自立を促進するべきである、という思想に基づき、日本版のテニュア制度「若手研究者の自立的研究環境整備促進」(科学技術振興調整費)が導入された。「日本版」と言ったのは、そもそも日本の多くの大学では「定年制」が敷かれていて、「tenureを持っていたら(研究費と給料を自分で出せる限り)いつまでも在籍して良い」という米国の制度とは大きく異なるからである。それどころか、「流動化促進」という目的で、教授(=full professor)でさえも任期付きの大学もある(筆者の所属する研究科もそうである)。
 この日本版テニュア制度では、「5年のプロジェクトの終了時点で評価を受け、優秀であれば大学の任期のない、または、更新可能な任期制教員として受け入れることが望ましい」とし、科学技術振興調整費では、テニュア・トラック教員の給料と新しく研究室を整備・運営・維持するための費用(研究支援者の人件費、設備・備品費、消耗品費等)が支援される。米国のtenure trackの教員には、セットアップ費(ただし大型の設備や高額な機器はたいていコア・ファシリティーとして整備されているので必要ない)と、2年程度の間の研究室運営費(人件費、消耗品費)が支給される。大学側としては、このようにして最初の2年くらいの間にtenure trackの教員に投資した後、各種の研究費が取れるようになれば、本人の給料の大半はそちらから出すことになり、また、間接経費(大学によって異なるが30-50%程度)を大学の収入として回収するようになる。
 筆者の所属するライフサイエンス系のテニュア・トラック制度のポジションの公募では、数十倍の応募者があったと聞いている。大学院の定員が増え、ポスドクの数が増えた現在、その次のアカデミック・ポジションを求める若手研究者の数に比して、門戸は十分に開放されているとは言えないのが現状である。

【女性研究者の活躍促進】
 現在、自然科学分野における女性研究者の比率は12.4%(平成19年3月時点)であり、ついに韓国(13.1%)に追い越される事態となった。この数字の低さは、国際比較(仏27.8%米34.3%)から見て異常に低いといえる。第3期科学技術基本計画では、研究を支える人材の多様化がイノベーションにつながるとして、国は女性研究者の活躍促進を行わなければならないとし、女性研究者の採用割合の目標を自然科学系全体で25%(理学系20%、工学系15%、農学系30%、保健系30%)と定めた。この実現のために、いくつかの施策が開始された。
 「女性研究者支援モデル育成」(科学技術振興調整費)は、優れた女性研究者がその能力を最大限発揮できるようにするため、大学や公的研究機関を対象として女性研究者が研究と出産・育児等を両立するための支援を行う仕組みを構築するモデルとなる優れた取組を支援するもの、と謳っている。平成18年度および19年度にそれぞれ10機関、平成20年度は13機関が採択され、今年度は33機関における取組が進んでいる。主な支援策としては、それぞれの機関における「女性研究者育成支援推進室」等の専任のスタッフや、女性研究者に対する研究支援要員の配置などが挙げられる。当該プログラムを契機として、機関独自の学内保育園等の整備、短時間勤務制の導入や女性研究者採用におけるインセンティブの付与などが行われ、アカデミアにおける女性研究者育成のための環境が少しずつ整備されつつある。しかしながら、最大の難関は採用時における女性比率の向上であり、こちらはなかなか進まない。アカデミアにおける教員採用は、一度に100名採用のうち、25名を女性にする、というようなトップダウンにはできないものであり、退職によって空いた1つのポストに誰を採用するか、という場合にはどうしても「ゼロ・イチ」になってしまう。また、「実力主義」という基準も、育児・介護等の重荷を背負いつつ研究を行っている女性にとっては、なんとも酷なことである。もともと「科学技術システム改革」の枠で立てられたこの事業は3年間の支援であり、事業終了後は大学等で独自に継続して取り組むことが求められており、システム改革は確実に進みつつあるが、男女共同参画加速はこれからが正念場である。
 「特別研究員事業(復帰支援)」(日本学術振興会)は、優れた若手研究者(女性とは限らない)が出産・育児による研究中断後に円滑に研究現場に復帰する環境を整備するため、研究奨励金を一定期間(基本的に2年)支給し、研究活動再開を支援する制度である。平成18年度には30名の枠であったが、平成20年度は80名に拡充されている。「この制度ができたことによって子供を作ろうと思った」というような現場の声も聞こえるが、一方で「2年の間に、子育てもしつつ次のポジションを得るだけの研究成果を挙げることが困難」という意見もある。しかしながら、女性研究者がリタイアするのは圧倒的に出産・育児を契機としている現状においては、本事業が継続されることが望ましい。ただし、本来であれば、産休明けから職場に復帰し、キャリアを途絶えさせないことこそが望まれる。欧米でこれが可能なのは、いつ子供ができても預けられる(定員の空き待ちの必要のない)保育園等の制度が充実しているからである。この問題については、必ずしもアカデミアだけに限らない。

【キャリアパスの多様化促進】
 上記でも触れているが、大学院の定員が増え、ポスドクの数が増えたにも関わらず、多くの若手研究者は少ないアカデミック・ポジションを目指す。この理由としては、当初の予測よりも圧倒的に産業界での受け入れが少なかったためでもある。日本が科学技術立国を目指すのであれば、高度研究専門人材を社会全体で十分に活用する必要があることは自明なのだが、これがなかなか進まない。このような背景を受け、「科学技術関係人材のキャリアパス多様化促進事業」(文部科学省)が18年度から開始された。若手研究者に多様なキャリアパスを示したり、啓発セミナーの実施、就職の指導や産業界との交流の場の設定を行うなど、それぞれの大学や研究所が独自のプログラムを提案して展開している。
さらには、平成20年度から始まった「イノベーション創出若手研究人材養成」(科学技術振興調整費)は、イノベーション創出の中核となる若手研究者が、狭い学問分野の専門能力だけでなく、国内外の多様な場で創造的な成果を生み出す能力を身につける研究人材養成システムを構築すべく実施される。今年度10機関が採択されたが、特徴的なのは、産業界のニーズを最大限取り入れ、意欲と能力のある若手研究者を競争的に選抜し、3ヶ月以上国内外の産業界等の研究等の現場で実践プログラムに参画させることであり、大学等の機関、個々の指導者、産業界が一体となって社会の多様な場を経験させるなど、優秀な若手研究人材の養成システムを機関に構築してもらうことを目的としている。
やはり、多様な良い人材を社会に輩出することこそがアカデミアの使命であることを早く認識しないと、せっかく育てた人材が無駄になってしまう。困ったことに、「背中を見せる」ことしか知らない指導教員の中には、ノン・アカデミアのキャリアを蔑視する傾向があり、学生やポスドクが啓発セミナーに参加することを拒むなどのアカデミック・ハラスメントを引き起こしている例もある。近年、この問題が世間の注目を集め、「博士の就職難」といった見出しが新聞等に躍るようにもなり、若者の博士離れが進行し始めていることはゆゆしき問題である。欧米のように、博士の資格を有していればそれなりの処遇が得られるように、育てる方も受け入れる方も努めなければ、国の力は大きく損なわれるだろう。

【むすびに】
 本稿では、主に大学等で実施されている人材育成事業について紹介した。この他にも、次代の科学技術を担う人材の育成を目指し、「科学技術理解増進事業」(科学技術振興機構)などの施策も展開されている。第3期の折り返し地点に立ち、すでに第4期科学技術基本計画策定に向けた議論が始まりつつある中、国の礎となる人材(人財)をどのように育成すべきか、現状に即したロードマップを描く必要がある。ただし、人を育てるということは簡単なことではない。何らかのプログラムや事業の効果が本当に分かるには、数年以上の時間がかかる。そして、施策も大切であるが、アカデミアの場合の基本はまず「研究室」の中にあるだろう。それぞれの人の個性を尊重し、大切にし合う雰囲気が研究室の中になければ、殺伐とした功利主義のみ蔓延してしまう。

【参考資料】
・文部科学省「平成20年度科学技術白書」
・内閣府「平成20年度男女共同参画白書」
・ 男女共同参画学協会連絡会「科学技術系専門職における男女共同参画実態の大規模調査」
・ その他、科学技術・学術審議会人材委員会席上配付資料

(「学術の動向」2008年9月号用オリジナル原稿)
# by norikoosumi | 2008-10-05 17:47 | その他

「社会の中の生物科学・社会の中の生物科学者」

はじめに
 2007年11月20日正午付け(米国東部時間)、京都大学・物質-細胞統合システム拠点/再生医科学研究所の山中伸弥教授が米国のCell誌に発表した論文は、世界中のメディアを駆けめぐった。論文の内容は、ヒトの皮膚細胞から人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発に成功したというものである。京都大学からのプレス発表(11月21日付け)によれば、「ヒトiPS細胞は患者自身の皮膚細胞から樹立できることから、脊髄損傷や若年型糖尿病など多くの疾患に対する細胞移植療法につながるものと期待されます。またヒトiPS細胞から分化させる心筋細胞や肝細胞は、有効で安全な薬物の探索にも大きく貢献すると期待されます。」と書かれている。iPS細胞は、これまで再生医療を目指した研究で用いられてきたES細胞(胚性幹細胞)と遜色のない、多分化能を備えた幹細胞としての能力をもつことから、メディアでは「万能細胞」と呼ばれ、この「分かりやすく夢のある言葉」の力によって、さらに巷に流布することになった。
 万能細胞の研究は、これまで研究費を投入した割には、まだノーベル医学生理学賞が取れない、と揶揄されてきたライフサイエンス分野に、スポットライトを当てた。材料科学や物作りは得意な日本の産業界も、バイオテクノロジー分野には手を出し難かったが、「万能細胞なら利用できるかもしれない」と注目を集めた。経済界、政界からも熱い声援を受け、平成20年度の文部科学省の予算にはiPS細胞分が上乗せされることが年末に決定された。そのため、急遽、「幹細胞・再生医学戦略作業部会」が年明け早々の1月10日に招集された。この予算による支援を受けるiPS細胞の研究拠点は、年度明け4月からプロジェクトの遂行を開始する予定である。
 筆者は発生生物学・神経科学分野で研究を行っているため、このような一連の動きを比較的近いところで見守っている。まさに「社会の中の生物科学・社会の中の生物科学者」を意識する時代になったことを肌で感じ、今後の生物科学研究のあり方について以下に思うところを述べたい。

1.ファンディング・エイジェンシーの目利き
 実は、山中教授はヒトiPS細胞の樹立の約1年前に、マウスの皮膚細胞からiPS細胞を樹立したことをCell誌に発表している(2006年8月10日付け)。この時点で、ヒトからもiPS細胞が近々作られるであろうことは、ほぼ確実であったと言って良い。ならば、iPS細胞研究への集中投資はこの時点で計画されるべきであった。日本の科学研究費の配分の問題の一つは、ファンディング・エイジェンシーに専門の目利きがいないことである。数年前からプログラム・オフィサー(PO)が導入されつつあるが、大半が大学等との兼務であり、絶対数も足りない。POは研究者のキャリアパスとしても考えられるべき職種である。研究現場を熟知したPOやプログラム・ディレクターのような立場の人間が、社会情勢を鑑み時機を見て思い切った研究費配分をできるような仕組みが必要であろう。公務員試験受験の年齢制限も、多様なキャリアを持った人材を排除することにつながっており、生物科学に限らず、時代に即した科学技術政策を進める上で問題が多いと考える。

2.今こそ個人研究を重視すべき
 山中教授の研究の出発点は、個人の自由な発想に基づく個人研究であった。iPS細胞研究が大きく発展したのは、科学技術新興機構が推進する戦略的創造推進事業(CREST)の「免疫難病・感染症等の先進医療技術」という領域において「真に臨床応用できる多能性幹細胞の樹立」という研究課題を遂行することになったからと思われる。CRESTは戦略目標に基づく研究費枠ではあるが、先進医療技術というにはまだ遠い山中教授の提案を、その時点で受け入れたコミッティーには先見性があった。基本的に、生物科学分野の研究ではボトムアップの個人研究をまず重視すべきである。大きなブレークスルーにつながる研究の芽は、いつどこから出てくるかわからない。個人研究のための研究費の基本は、いわゆる科研費であるが、運営費交付金の減少とも相まって、ここ数年で採択率が下がりすぎた。これは生物科学研究における根本的な危機である。研究の規模に応じた個人研究のための研究費の枠をきちんと確保することが、是非とも求められる。

3.役に立つだけが科学ではない
 山中教授自身は整形外科の臨床医としての経験を元に、「患者を治すための基礎研究」を展開してきたのではあるが、iPS細胞研究が生みだされた背景に、日本における発生生物学の歴史と伝統が影響したことは指摘しておかなければならない。それは、ウニなどの受精の研究であったり、水晶体の細胞の分化転換であったり、イモリの眼や手足の再生であったりしたのだが、そういう歴史を受け継いだ発生生物学の研究者コミュニティーが、山中教授の研究を高く評価し、ポジションや研究費の提供に関わったのである。世の中が「万能細胞」に浮かれると、猫も杓子もiPS細胞に手を染めることになりがちであるが、さらに次世代の生物科学を発展させるためには、「生き物のいとなみ」そのものを明らかにする研究に価値があることを社会が認め、それを育むことが涵養である。そのためにはまず、生物科学者こそが自身の研究の価値をきちんと社会に伝えなければならないと考える。「(きっといつか、たぶん)役に立つと思います」という言い訳をするのではなく、今行っているその研究の価値や面白さそのものが、専門家だけでなく、社会に「伝わる」ように、努力すべきである。さらに、生物科学者と社会のインターフェースとして働く人材がもっと活躍できるようにする必要があるだろう。具体的には、研究コーディネーターやラボマネージャー、科学コミュニケーターなどの職種が充実すべきである。

おわりに
 毎週のように何らかの記事が新聞に掲載され、サイエンスZEROなどの科学番組でも取り上げられるなど、「iPS細胞狂想曲」はまだ奏でられつつある。他分野からのやっかみが聞こえることもあるが、山中教授が良いロールモデルとなって若い人たちを惹きつけてくれたら、「理科離れ」「生物離れ」問題の解消や、バイオビジネスの展開にも貢献できるだろう。今吹いている追い風は、日本の生物科学の発展において千載一遇のチャンスである。
(『学術の動向』2008年5月号特集2「生物科学の今日から明日へ」用原稿)
# by norikoosumi | 2008-05-19 13:41 | その他