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by norikoosumi
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「社会の中の生物科学・社会の中の生物科学者」

はじめに
 2007年11月20日正午付け(米国東部時間)、京都大学・物質-細胞統合システム拠点/再生医科学研究所の山中伸弥教授が米国のCell誌に発表した論文は、世界中のメディアを駆けめぐった。論文の内容は、ヒトの皮膚細胞から人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発に成功したというものである。京都大学からのプレス発表(11月21日付け)によれば、「ヒトiPS細胞は患者自身の皮膚細胞から樹立できることから、脊髄損傷や若年型糖尿病など多くの疾患に対する細胞移植療法につながるものと期待されます。またヒトiPS細胞から分化させる心筋細胞や肝細胞は、有効で安全な薬物の探索にも大きく貢献すると期待されます。」と書かれている。iPS細胞は、これまで再生医療を目指した研究で用いられてきたES細胞(胚性幹細胞)と遜色のない、多分化能を備えた幹細胞としての能力をもつことから、メディアでは「万能細胞」と呼ばれ、この「分かりやすく夢のある言葉」の力によって、さらに巷に流布することになった。
 万能細胞の研究は、これまで研究費を投入した割には、まだノーベル医学生理学賞が取れない、と揶揄されてきたライフサイエンス分野に、スポットライトを当てた。材料科学や物作りは得意な日本の産業界も、バイオテクノロジー分野には手を出し難かったが、「万能細胞なら利用できるかもしれない」と注目を集めた。経済界、政界からも熱い声援を受け、平成20年度の文部科学省の予算にはiPS細胞分が上乗せされることが年末に決定された。そのため、急遽、「幹細胞・再生医学戦略作業部会」が年明け早々の1月10日に招集された。この予算による支援を受けるiPS細胞の研究拠点は、年度明け4月からプロジェクトの遂行を開始する予定である。
 筆者は発生生物学・神経科学分野で研究を行っているため、このような一連の動きを比較的近いところで見守っている。まさに「社会の中の生物科学・社会の中の生物科学者」を意識する時代になったことを肌で感じ、今後の生物科学研究のあり方について以下に思うところを述べたい。

1.ファンディング・エイジェンシーの目利き
 実は、山中教授はヒトiPS細胞の樹立の約1年前に、マウスの皮膚細胞からiPS細胞を樹立したことをCell誌に発表している(2006年8月10日付け)。この時点で、ヒトからもiPS細胞が近々作られるであろうことは、ほぼ確実であったと言って良い。ならば、iPS細胞研究への集中投資はこの時点で計画されるべきであった。日本の科学研究費の配分の問題の一つは、ファンディング・エイジェンシーに専門の目利きがいないことである。数年前からプログラム・オフィサー(PO)が導入されつつあるが、大半が大学等との兼務であり、絶対数も足りない。POは研究者のキャリアパスとしても考えられるべき職種である。研究現場を熟知したPOやプログラム・ディレクターのような立場の人間が、社会情勢を鑑み時機を見て思い切った研究費配分をできるような仕組みが必要であろう。公務員試験受験の年齢制限も、多様なキャリアを持った人材を排除することにつながっており、生物科学に限らず、時代に即した科学技術政策を進める上で問題が多いと考える。

2.今こそ個人研究を重視すべき
 山中教授の研究の出発点は、個人の自由な発想に基づく個人研究であった。iPS細胞研究が大きく発展したのは、科学技術新興機構が推進する戦略的創造推進事業(CREST)の「免疫難病・感染症等の先進医療技術」という領域において「真に臨床応用できる多能性幹細胞の樹立」という研究課題を遂行することになったからと思われる。CRESTは戦略目標に基づく研究費枠ではあるが、先進医療技術というにはまだ遠い山中教授の提案を、その時点で受け入れたコミッティーには先見性があった。基本的に、生物科学分野の研究ではボトムアップの個人研究をまず重視すべきである。大きなブレークスルーにつながる研究の芽は、いつどこから出てくるかわからない。個人研究のための研究費の基本は、いわゆる科研費であるが、運営費交付金の減少とも相まって、ここ数年で採択率が下がりすぎた。これは生物科学研究における根本的な危機である。研究の規模に応じた個人研究のための研究費の枠をきちんと確保することが、是非とも求められる。

3.役に立つだけが科学ではない
 山中教授自身は整形外科の臨床医としての経験を元に、「患者を治すための基礎研究」を展開してきたのではあるが、iPS細胞研究が生みだされた背景に、日本における発生生物学の歴史と伝統が影響したことは指摘しておかなければならない。それは、ウニなどの受精の研究であったり、水晶体の細胞の分化転換であったり、イモリの眼や手足の再生であったりしたのだが、そういう歴史を受け継いだ発生生物学の研究者コミュニティーが、山中教授の研究を高く評価し、ポジションや研究費の提供に関わったのである。世の中が「万能細胞」に浮かれると、猫も杓子もiPS細胞に手を染めることになりがちであるが、さらに次世代の生物科学を発展させるためには、「生き物のいとなみ」そのものを明らかにする研究に価値があることを社会が認め、それを育むことが涵養である。そのためにはまず、生物科学者こそが自身の研究の価値をきちんと社会に伝えなければならないと考える。「(きっといつか、たぶん)役に立つと思います」という言い訳をするのではなく、今行っているその研究の価値や面白さそのものが、専門家だけでなく、社会に「伝わる」ように、努力すべきである。さらに、生物科学者と社会のインターフェースとして働く人材がもっと活躍できるようにする必要があるだろう。具体的には、研究コーディネーターやラボマネージャー、科学コミュニケーターなどの職種が充実すべきである。

おわりに
 毎週のように何らかの記事が新聞に掲載され、サイエンスZEROなどの科学番組でも取り上げられるなど、「iPS細胞狂想曲」はまだ奏でられつつある。他分野からのやっかみが聞こえることもあるが、山中教授が良いロールモデルとなって若い人たちを惹きつけてくれたら、「理科離れ」「生物離れ」問題の解消や、バイオビジネスの展開にも貢献できるだろう。今吹いている追い風は、日本の生物科学の発展において千載一遇のチャンスである。
(『学術の動向』2008年5月号特集2「生物科学の今日から明日へ」用原稿)
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by norikoosumi | 2008-05-19 13:41 | その他
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