いろいろな原稿を載せる予定です
by norikoosumi
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社会の中の脳科学

はじめに
 「脳トレ」や「右脳・左脳」など、ここしばらく巷では「脳ブーム」と言われています。脳科学分野で研究する身としては、市民の関心が高いことは嬉しく、有り難いことではありますが、その分、「科学者として、研究成果をどのように伝えるか」については責任も大きいと感じています。本稿では、脳科学の現状からみた未来について、筆者の思うところについて述べたいと思います。

生命科学の中の脳科学
 筆者は学問のトレーニングの最初を「発生生物学」という分野において行いました。当時は「顔の発生」という茫漠とした研究領域の中で、眼や鼻がどのようにして形成されるかについての研究を行っていました(「目鼻立ち」と言われるように、眼や鼻が形成されると、のっぺらぼうだった頭にようやく「顔」が出来るのです)。その当時、指導教授の話された「顔は中枢の表現型」という言葉に強く惹かれたせいか、気がつくと数年後には「脳の発生」を研究していました。というのは、「眼や鼻を作るのに重要な遺伝子(その名前はPax6<パックスシックス>という)が、脳でも非常に大切な働きをしていると予測されたからです。
 生命科学Life scienceという学問領域においては、遺伝子や分子が共通言語となっています。つまり、扱う生命現象は異なっても、そこで働く遺伝子や、遺伝子によって作られるタンパク質、酵素と基質の反応(酵素も遺伝子によって作られる)などには、普遍性があり、基本的な原理原則があるのです。したがって、Pax6という分子を鍵として眼・鼻の形成を研究していた者が、脳の研究に入っていくことは、さほど難しいことではありません。
 実は筆者は、高校時代に心理学にも興味があったのですが、当時は心の問題を遺伝子レベルで考えることなど絶対にありえないと思っていました。したがって、迷うことなく理系の大学に進学しました。それが今や、遺伝子がどこで働いているのかを可視化する技術や、遺伝子の働きを人為的に改変する技術が開発され、浸透し、「心のあり方」について研究するための手段の一つにもなりつつあります。数年前には、なんと「言語や発話に関わる可能性が高い遺伝子」(その名前はFoxP2<フォックスピーツー>と言います)も報告されました。
 現在主流な生命科学のお作法は「還元論」ではありますが、心を生みだす脳の仕組みやでき方について細かく分けて調べてみよう、というアプローチは「神経生物学」「神経発生学」などと呼ばれ、脳科学の中でメジャーな位置を占めています。つまり、生命科学という分野では、心や脳の問題を(とりあえず)遺伝子や分子や細胞のレベルに落とし込んで、そこから得られる情報を受け止め、可能であれば神経疾患や精神疾患などの治療の糸口にしたいと考えているのです。

哲学に迫る脳科学
 誤解されがちなのですが、上記のような「生命科学の還元論」によって心がすべて解き明かされるとは研究者は思っていません。さまざまな階層におけるシステム的理解や統合的アプローチが必須であることは間違いないことです。ですが、現代の脳科学は、かつて哲学で扱われることが一般的であったような命題にも迫ろうとしていると思われます。
 例えば、私たちの身体は、細胞レベルで見たときに1ヶ月くらいの周期で入れ替わっています。身体の一部である脳は、これまでその「例外」と思われてきました。つまり、神経細胞は主として胎生期に産生され、3歳くらいに数のピークがあり、後は減っていくだけと筆者自身も大学時代に教えられたのですが、実はそうではないことが15年ほど前から明らかになってきました。記憶の入り口と呼ばれる海馬などの脳領域には「神経幹細胞」が存在し、毎日新しく神経細胞が作られるのです。若いラットでは一日あたり約8000個もの神経細胞が生まれています。このうちすべてが生き残るのではありませんが、1割程度は定着し、既存の神経回路に組み込まれます。分子のレベルでは、さらに短い周期で入れ替わりがあると考えられます。これまでの神経生理学では、記憶の素過程が神経細胞(ニューロン)の構成する回路や、神経細胞同士の結合部(シナプス)の強さに求められると考えてきました。では、細胞レベルでは異なるにも関わらず、どうして「昨日の自分と今日の自分は同じ自分であるといえるのか?」 この問題を解くことは、「自己・自我とは?」という明らかにする根源ともいえるでしょう。なお、ここでも、「昨日の自分と今日の自分は同じ自分である」と思えない状態が、精神疾患のある種の症状であると捉えることもできますので、治療への路につながることも期待されます。
 しばらく前に、哲学の先生から次のような難題を出されました。「例えば、<憎い>という感情にある状態の脳が、画像レベルでも分子レベルでも、何か物理的・定量的に記載されたとして、では、ある人が誰かを<憎んだ>結果、相手に向けて拳銃の引き金を引いたとします。この場合に、拳銃で撃った人には自分の脳の物質的状態をコントロールすることはできず、<自由意志>はなかったと見なせるので、罪には問われない。脳科学が教えることは、こういう意味でしょうか?」 普通の市民も、ナイーブな脳科学者も、「そんなことはありえない」と思っています。どんなに憎くても辛くても、他人を殺すことは悪であると教えられてきたはずです。むしろ、これからの哲学や教育学こそが、脳科学の成果を取り入れた上で、「徳とは何か?」「より良く生きるにはどうしたらよいか?」という命題に正面から取り組んで頂きたいと思います。

脳科学における遺伝と遺伝子
 「肥満の遺伝子」「糖尿病の遺伝子」「癌になりやすい家系」などについての情報が巷には溢れています。一つの遺伝子だけで肥満や糖尿病を引き起こすことはできないのですが、マスメディアの見出しではウケを狙って、どうしてもこうなります。では、「統合失調症(精神分裂病)の遺伝子」「躁鬱病の遺伝子」というと、この言葉の受け取られ方には気を遣わなければなりません。それは「心の病気」を扱うことの難しさによります。
 例えば統合失調症は、ゲノム(遺伝子のセット)が同一な一卵性双生児同士の間での一致率が40-60%と言われています。つまり、一卵性双生児の片方の方が発症した場合に、もう片方の方も発症する確率が約50%ということです(一覧性双生児の方の50%が統合失調症を発症する、という意味ではありません。念のため)。このことは、「統合失調症には<遺伝>が関わる。ただし、<遺伝>だけでは決まらない」ことを意味します。肥満、糖尿病などの場合と同じですね。なぜなら、遺伝子や遺伝的プログラムの働き方には、生活習慣や個人の経験などが大きく関わるからです。さまざまな遺伝子の機能が分かり、個人のゲノム情報が簡便に分かる時代になると、「自分の運命がすべてわかってしまい、個人の努力は意味が無くなる」と危惧される方もおられますが、そんなことはありません。
 日本人はウェットな精神性なためか、「遺伝・遺伝子」がタブー視される傾向にあると感じています。例えば自分の子供が重い病気に罹ったとして、遺伝子診断により、その原因がある遺伝子に生じた変異によるためだと判明すると、欧米の親御さんなら「あぁ良かった、それならば自分たちの育て方のせいではなかった」と安堵するのに対し、日本の場合には「この子に遺伝子の変異が生じたのは私のせいではないか? ご先祖様に申し訳ない」と嘆かれるといいます。ですので、遺伝カウンセリングがなかなか難しいのです。
 日本におけるこのような状況は、早急に改善しなければならないと思います。脳科学の中で遺伝子を扱う研究者が、その成果を社会に発信する際にきちんとした説明をしていくことはもちろんですが、おそらく小学校レベルの理科や倫理の教育の中に、自然なかたちで「遺伝・遺伝子」が取り入れられる必要があります。DNA鑑定により個人の遺伝子情報を得る時代は、すぐそこまで来ています。

脳科学と倫理
 CTやPET、fMRIなど、非侵襲的に脳の静的・動的状態をスキャンすることが可能になったことは、とくに認知脳科学といわれる学問領域を大いに発展させました。しかしながら、上に述べた遺伝子の問題と同様に、個人の脳画像の扱いというのも倫理的な問題を孕んでいます。
 倫理的な問題の一つは、個人の特質と脳画像のデータが膨大に蓄積していくと、例えばIQの高い(高くなるであろう)子供の脳画像の特徴が分かることになり、就学前からそれを知りたいと思う方が増えるかもしれません。私は個人的には、初等教育でもより「習熟度別」の教育が為されるべきと思っていますが、このようなデータが教育上の差別につながってほしくはありません。また、悪質な性犯罪を繰り返す人の脳画像のデータが揃ってくると、初犯で捕まったときに脳画像を撮ることを要求され、その結果で再犯の可能性が予測されて処罰が変わるというような可能性も考えられます。あるいは、健常人のボランティアとして脳画像を撮った際に、腫瘍が見つかったとしたら、それは誰がどのように本人に伝えるのか、という問題もかなり現実的と思われます。これから、私たちはこういった脳画像データとどのように付き合っていくのか、考えなければならない状況に直面しているのです。
 別の側面として、脳科学と工学が融合した分野における倫理的問題があります。脊髄損傷などを負って手足を思うように動かせなくなってしまった方に、脳と機械を直接繋いで、モニタ上でカーソルを動かしていろいろなスイッチを押すなどの機能を与えるブレイン・マシーン・インターフェース(BMI)の技術は、ここ数年の間に画期的に進んできました。あるいは、人間が本来持っている力よりもずっと大きな力で重い物を持ち上げたりすることができれば、災害救助などに役立つと考えられることから、パワー・スーツなどが開発されていますが、街で歩いている人がパワー・スーツの威力を悪用すれば、強力な殺傷力が発揮されることになります。これらの脳科学に関連する技術も、今後、社会の中でどのようなルールで実用化していくのかを見極めなければなりません。あるいは、アイザック・アシモフが予言した人とロボットが共存する時代も、いよいよ現実味を帯びてきました。ロボットと人の境界も連続的になる可能性があり、そのような世界における生き方の規範が求められることになるでしょう。

社会の中の脳科学
 人間の力が自然に対して相対的に弱かった時代に、宗教はそんな弱い人間の気持ちを支え、集団として生きる力をつけるために生まれました。文明が興り、産業が発展し、人の生活のあり方は、たかだか2000年ほどの間にも大きく変化し、また最近、そのスピードはさらに速くなっているように感じます。そんな社会において、「似非科学」がいわば宗教的な癒しの役割を果たすことによって横行していることが気になります。
 例えば、水の結晶はさまざまな条件によって凝固し、見事な美しさを見せますが、それは、人が「綺麗だね、可愛いね」と話しかけるからではありません。「綺麗だね」と、ポジティブな言葉を発すること自体は、その人にとってヒーリング効果があると予測できますが(必要があれば、脳画像などで測定することができるでしょう)、それが、水が固体に変化するときに影響するとは思えません。逆に、野に咲く花がどれも綺麗なように、どんな結晶であれ、気をつけて見れば美しさを発見することは可能でしょう。
 脳科学が目指すところは、おそらく究極には人の心の理解だと思えますので、研究対象はどうしても普段の人の生活に近くなります。そのことが、似非科学へも近くなりやすい原因を生みます。「右脳型・左脳型」なども、言語野がほとんどの人で大脳の左半球に存在することをもとに膨らました、いわばファンタジーです。絵を描くこと、音楽を奏でること、あるいは言語処理、論理処理、皆、脳のいろいろな部分を使っていることは間違いなく、どちらかが優位かどうかについても個人差も多々あります。神経伝達物質の一種であるGABAは、確かに「抑制性ニューロン」において働いているのは、脳科学者なら誰でも知っている事実ですが、「GABA入りチョコレート」を食べることが本当にストレスを緩和するのかについては、科学的データが十分とは思えません。さらに重要なことに、臨界期の成立にこのGABAが関わるという最新のデータがありますが、だからといって子供にGABAを与えれば、臨界期が伸びるかどうかは、また別の問題です。
 おそらく、これまで以上に、脳科学の成果について、できるだけ正確に、分かりやすく一般市民に伝えることが必要だと思われます。「正確に」と「分かりやすく」は、なかなか同時に達成することが難しいのですが、脳科学研究者自身が語るだけではなく、市民とのインターフェースとして活躍する「科学コミュニケーター」や「インタープリター」の存在が、今後より重要になると考えられます。研究者が「熱い思いを語る」ことも大切ですが、コミュニケーションというのは相手があってのことです。聴衆に「伝わる」ための工夫やテクニックも必要でしょう。

おわりに:脳科学を活かす社会へ向けて
 脳科学の成果は私たちの生活をより良く充実するものであり、教育や福祉などの分野においてより良く活かされるべきものと思われます。とくに、脳の発生や発達に関する知見は重要であり、その応用面を考えた場合には、遺伝子や分子レベルでの知識が役立つことであろうことは疑いもありません。研究者からの情報発信も大切ですし、既存のメディアを通じてだけの情報提供だけではなく、今まさに専門家として社会とのインターフェースになる人材が求められていると感じます。
(月刊公明 第29号用オリジナル原稿)
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by norikoosumi | 2008-10-05 17:53 | その他
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