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『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』

【岩波『科学』書評:心にのこる1冊のためのオリジナル原稿】
『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』
セミール・ゼキ著
河内十郎監訳
日本経済新聞社

 2008年6月14日8時43分に岩手・宮城内陸地震が起きたとき、私の脳は睡眠と覚醒の狭間にいた。「宮城沖地震は37年周期で起きる」と聞いていたので、予震のような揺れを感じて「ついに、来たか!?」と飛び起きた。リビングのサイドボードに飾っている須恵器の壺が一番先に気になり、横には倒れたが無事だった壺を手で押さえている間、9階の自宅はかなり揺れ、書棚の上の方の本が何冊も床に落ちた。書棚に飾っていたモルフォ蝶の額も転落し、片側の翅2枚が外れてしまった。初めて香港に行ったときに求めた、光り物をいっぱいくっつけた瀬戸物の招き猫は、落ちて砕けた。1分くらい続いた揺れがようやく収まってみると、書棚は10センチ近く壁より前に移動していた。もちろん、下の方にはまだ何十冊も本があって、私が押してもびくともしないのだが。
 今回、書評の依頼を受けて、どの本を取り上げようかと、ずっと悩んでいた。どうぜなら記念に、地震で動いた書棚にあったものからにしようと限定を加え、それでも最後の最後まで迷った結果、視覚認知科学者であるセミール・ゼキ博士の本書を選んだ。ちなみに、最後の最後まで残ったのは『美しき未完成 ノーベル賞女性科学者の回想』(リタ・レーヴィ=モンタルチーニ著、藤田恒夫、曽我津也子、赤沼のぞみ訳、平凡社)であるが、この本が次点となったのは、現在絶版になっているからである。
 著者のセミール・ゼキ博士は英国ロンドン大学神経生物学の教授であり、サルの脳をモデルとして視覚情報処理に関する研究で著名な功績を挙げた方である。四半世紀にわたる膨大な研究成果と、ご自身の興味から、ゼキ博士は「神経美学」なるものを理解し、構築したいのだろうと想像する。すなわち、人はなぜ、美しいと感じるのか、という命題を、脳内で生じるフィジカルな事象から説明しようというチャレンジである。これがいかに難しいことであるかは、セミール・ゼキの関わる別の本『芸術と脳科学の対話——バルテュスとゼキによる本質的なものの探求』(バルテュス、セミール・ゼキ著、桑田光平訳、青土社)を読まれるとよいだろう。芸術家と脳科学者の間で、まったく噛み合わない「対話」が延々と続くのは、それなりに面白い。ゼキの立場は「美術と脳の機能は同一のものであり」「脳の働き、その中でも特に視覚脳の働きを知ることによって、生物学を基礎とする新しい美術・美術論のアウトラインを展開できる」と考えるところにある。象徴的な例を一つ挙げるとすれば、「今からおよそ五〇〇年前に、レオナルド・ダ・ヴィンチは『すべての色の組み合わせで最も心地よく感じられるのは、相対立する色から成り立っている場合である』と述べた。……しかしながら、それが真実であることは、今からわずか四〇年ほど前に、反対色特性が発見され、そこで初めて生理学的に証明されたのである。赤で興奮する視覚系の細胞は緑で抑制され、黄色で興奮する細胞は青で抑制され……(その逆もすべて正しいこと)が生理学的に確かめられたのである」(本書第1章より)。一方、バルテュスは「脳の働きを知らなくても、何ら問題なく新しい美術を展開できる」と納得し、実践している訳である。
 一般的に哺乳類は嗅覚が発達した動物であるが、霊長類は嗅覚よりも視覚が優位となっている。ゼキに言わせれば「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」のだ。そして、「視覚とは、絶えざる変化を差し引き、物体を分類するために必要なもののみを抽出する能動的な過程(プロセス)である」と考えられる。そう、「分ける」ことことが「分かる」ことなのである。そして、「見る」という好意はきわめて能動的であり、私たちが見ている世界は、「外界の物理的現実だけではなく、脳の機構と脳の法則によって」も左右される。
 本書では、カラヴァッジョからミケランジェロ、印象派からキュビズム、さらにはキネティック・アートまで、さまざまな作品が取り上げられているが、書評者の大好きなフェルメールについて触れよう。フェルメールは寡作ではあるが、どの絵も見る人に強烈な印象を残すのは、光と影、色使い、遠近法の用い方など、卓越した技術に基づくことは間違いない。初期の顕微鏡を製作したアントニー・ファン・レーウェンフックと親交があり、レーウェンフックの助けを借りてカメラ・オブスクラ(暗室箱カメラ)を用いていたという逸話は、研究の修行の出発点が光学顕微鏡によるスケッチだった者にとって忘れがたいものである。「フェルメールの青」と称される独特の美しい青色は、高価なラピスラズリを粉にして作った絵の具によるとされ、明るい黄色と見事な対比をなしている。さて、本書第4章で、ゼキ博士はフェルメールの絵画の持つ不思議な「心理学的な力」に着目している。『ヴァージナルの前に立つ女性』『楽譜を持つ紳士と少女』『音楽のレッスン』など、鑑賞者は誰かの部屋を覗き見しているような感覚に陥る。題材自体は、レンブラントなどにも扱われた日常生活であり、フェルメール独自のものではない。にもかかわらず、「心理的な力」があったからこそ、フェルメールの絵画は「人を惹きつけ、人の感情をかきたてる」とゼキ博士は考える。
 では、そのような「心理的な力」とはどのようにして生まれているのか? ゼキ博士はその答えを、「曖昧さから生まれる恒常性」に求めている。『音楽のレッスン』には、ヴァージナルを弾いているらしい後ろ姿の女性の横に、男性がたたずんでいる。「この二人の間に何らかの関係があることは否定できない。しかしながら、男性は女性の夫なのか恋人なのか求婚者なのか友人なのか」、その二人の間でどんな会話が交わされているのか、鑑賞者の心にさまざまな可能性が浮かぶ。つまり、「フェルメールの作品には、脳の中に蓄積されている過去の出来事の記憶の中から多くのものを呼び起こす力が含まれている」のである。
 同様の「曖昧さ」は、『手紙を書く婦人と召使い』や『婦人と召使い』の場合でも、描かれた人物が一人である作品、例えば『真珠を量る女』や『青衣の女』の場合でも感じられる。ちなみに、本書は上質の紙にこれらの美しい絵がカラー印刷されているのが嬉しい。いちいち、図録を持ち出さなくても、ゼキ博士のいわんとすることを確認することが可能である。「真珠を量る女」は何を考えているのか、複数の可能性が浮かび、その答えは謎に包まれる。女性の背後にある絵画「最後の審判」を「教訓」というアイコンとして捉える美術専門家はいるだろうが、そんなことを知らない一般の鑑賞者にとっては、「曖昧」な方がより魅力的である。フェルメールの計算され尽くした技術は、いかにもありそうな日常の「恒常性」を描き出し、それゆえ「曖昧さ」が際だつことによって、鑑賞者の想像力がかきたてられるのだ。
 このような「曖昧さと恒常性」という観点において、ゼキ博士は、フェルメールとキュビズムの間に強い類似性を見出す。キュビズムについての画家の言葉を引用し、「いくつかの形は暗示的に示しておかなければならない。そうすることによって、鑑賞者の頭の中が、実際に形が誕生する特別の場所になるのである」という記載が、フェルメールの絵画についての説明として成り立つとする。
 「恒常性」が脳の中でどのように成り立っているのかについては、まだ現在ほとんど理解されていない。一つ一つの形や色は厳密に言えば異なっていても「リンゴ」は「リンゴ」だと認識されるし、チワワもブルドックもゴールデンリトリーバーも同じ「イヌ」としてくくられるのは、それらのDNAを解析してみて初めて分かることではなく、直感的に理解される。小さな子供では、まだその能力は備わっていないことから、何らかの方法で獲得されていくものと考えられるが、それは一体、脳の中でどのように処理されているのだろう? 
 美に関して、私たちの周りには一体全体、知らないことだらけである。星の瞬きを、木々の緑を、滑らかな肌を、美しいと感じるのはなぜなのか? そこに合目的的な説明を加えるのは現時点でも可能であるが、脳の中でどんなフィジカルな事象が生じているのかは、まだ誰も知らない。
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by norikoosumi | 2008-10-05 19:30 | その他
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