いろいろな原稿を載せる予定です
by norikoosumi
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カテゴリ:河北新報往復書簡( 12 )

鍋、焦がす?焦がさない?(河北新報3月26日掲載ー完ー「前略早々 博士から博士へ」)

【オオスミより】

 「生パスタパーティー」と称して、女ばかり五人で集まったときのこと、「鍋って焦げるよね?」と言われた。その発言の主がコタニ先生だったのか、別の先生だったのか、記憶に定かでない(アルコールの影響によると思われる)。
「えっ? 何でお鍋が焦げるの?」
「だって、火にかけた後、論文読み始めたりすると鍋ってすぐ焦げない?」
「うーん、お鍋の傍を離れるんだったら、タイマーとか、かけたりしない?」
「論文読むんだったら、お鍋の傍にしたら?」「手順が悪いのでは?」
 このとき判明したのは、「鍋を焦がさない派=実験をする」と「鍋を焦がす派=実験をしない」ということだった。
 「鍋を焦がさない派」の三人は、若いときから並行して二つ、三つくらいの実験をこなすトレーニングを積んでいる。したがって、鍋を火にかけつつ、さらに他の仕事を行うという素養がある。それに対して、「鍋を焦がす派」の二人は、一つのことを集中して行うという経験を重ねているのではないかと思われた。
 生物学の私のいるような分野では、仮説をもとに実験をして検証するというのがお作法である。そのために、朝から晩まで、場合によっては夜中まで、培養している細胞に何かの物質を振りかけたり、ネズミの生活時間帯に合わせて処理をしたり、というウェットな実験を行うことになる。かなり泥臭い労働だ。でも結局は、自分にとって至福の時間は生の試料に触っているときかなと思える。

【コタニより】

朝から晩まで,「仮説が正しい」ことを確かめるという点では同じ科学者なのに,オオスミ先生はマルチタスクを平行して行うという私から見たら神様のような技を持っている.一方,こちらは他のことを全て忘れて一つのことに没頭できなきゃダメという刷り込みがある.斯様に異なる二人だからこそ,おしゃべりが楽しいのだろう.いつも,意外な発見がある.この往復書簡は今日が最後.これからは,いつものワインバーでおしゃべりの続きとしましょうか.
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by norikoosumi | 2006-04-02 12:57 | 河北新報往復書簡

その差は愛(河北新報3月19日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【コタニより】

オオスミ先生から「量子コンピュータ」というお題を頂いたのだろうか? 

シッポをパタパタ状態である。量子コンピュータは素人だが、私の研究には、量子力学の生みの親シュレーディンガーの名前のついた演算子が出てくる。量子力学についてなら何時間でも熱く語れる。ウ〜ン、ノーサンキューというオオスミ先生の顔が目に浮かぶ。
量子力学と日常的な感覚とのもっとも大きなずれは「観測をする」ことが状態を変えてしまうということではないか。例えば、位置と運動量、どちらかを観測した瞬間に状態が遷移してしまうから、両方を同時に知ることはできない。これを「不確定原理」と呼んでいる。
不確定性原理のもとになっている関係式AB-BA= iに関する数学仲間で有名なジョークは
(鈴木さんの)(可愛い)奥さんと(可愛い)(鈴木さんの)奥さんの違いはi(愛)である、
など非可換な交換関係は日常生活にもしばしば見られるというもの。
量子力学における「重ねあわせ状態」を利用すれば計算のスピードが破格にあがるというのが量子コンピュータの数理である。しかし、現実に量子コンピュータを作るハードの問題はとてつもなく難しい。観測した瞬間に量子力学的状態は壊れてしまうので、量子コンピュータが計算している間に「観測」してはいけないのだ。「機を織っている間はけっして覗かないでくださいね」とおつうさんのようなことをいうので、外から完全に孤立した理想状態を作ってやらなくてはならない。オオスミ先生の参加した会議でも、ハード作りの技術の議論に熱が入っていたのは当然のことだ。
また聞きなので真偽のほどは定かでないが、人間の思考が現在のコンピュータと同じオン・オフの伝達だと考えると、いわゆる「ひらめき」に関しては、情報から答えを出す速度があまりに速すぎる。これを量子コンピュータと同じ理論で説明できないかなどという話もあるそうだ。この辺のことはむしろオオスミ先生の専門だ。
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by norikoosumi | 2006-04-02 12:54 | 河北新報往復書簡

数学分かる?(河北新報2006年3月12日掲載「前略早々 博士から博士へ」

【オオスミより】
 今、数学がアツイ。数学そのものや数学者を紹介する本などが、たくさん本屋さんに並んでいる。しかし、コタニ先生が「説明すれば誰にでも分かる」と言われても、何せ三千年の歴史のある積み上げの学問であるため、博物学のように「パンダには第二の親指がある!」と聞いて「ふうん、そうなんだ」という理解にはならない。
 実は、数年前に日米先端科学シンポジウムという異分野交流の会に参加したのだが、そのときの数学のセッションのテーマが「量子コンピューター」だった。悲しいことに、何を面白がればよいのか分からなかった。唯一覚えているのは、「ムーアの法則」というものがあって、現在のコンピューターの処理速度は十八カ月で二倍に向上しているのだが、これだと2030年に限界に達するということだった。
 昨年、似たような別の機会(日米先端工学シンポ)で、やはり量子コンピューターの話を聞いた。量子コンピューターは個人で使うパソコンのようなものではなく、H2ロケット並の「一国家に一台」というレベルらしい(そのくらい予算もかかる)。小さなシリコン粒子をきちんと並べ、それを磁石で動かすことによって計算処理をするという。ナノテクの進歩で量子コンピューターは実現可能な時代に入った。
 その会で生物系の参加者が質問した。「量子コンピューターを造って、何を計算させるのですか?」「量子理論で考えられるような不確実性のある問題を解くには、量子コンピューターの方が適切と考えられるのです」
 すぐ目の前に解きたい問題があるというよりは、今後そういう問題を解くためにはハードが必要だから造ってしまおう!ということらしい。
 でも、生物学者も数学者との出会いと交流を求めているのは確か。私の知る面白い研究として、魚の体表のしま模様が「波の理論」によって説明できるというものがある。魚の成長に伴ってしまや斑点が変化していく様子は、数学者アラン・チューリングが打ち立てた反応拡散波理論によってシミュレーションできるのだ。こういう理論と、実体としてのタンパク質などの分子がどのように結びつくのか、今後の展開が楽しみだ。
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by norikoosumi | 2006-03-12 17:53 | 河北新報往復書簡

数学分からない?(河北新報3月5日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【コタニより】
 けいはんなプラザ(京都府精華町)で行われた第四回「数学者のための分子生物学入門」に参加した。四回目の集まりはオオスミ先生の専門「脳」がテーマ。
 数学はこれまで物理と手を取り合い、お互いを刺激しながら発展してきたけれど、二十一世紀は「数理生物学」だという声をあちこちで聞く。すべてを統一的に扱う大理論を見つけることに巧みだった数学や物理に対して、あまりに多様で、例外のコレクションのような生物を、個別論ではない「理論」の枠組みに乗せられるのか。そういう多様で複雑なものを記述するには「新しい数学概念」が必要なのではないか? 数学は「生物」と接することに、飛躍の可能性を感じているのだ。
 ところで、非数学系講演者が皆口々に、ちょっと恐れをいだいて来ましたという。「数学者って胃が弱そう」「目が泳いでいる」「紙と対話して生きていける」「数式を見ると顔が輝く」などの印象を持ってきたそうだ。当たっていなくもないが、そんなに浮世離れしているわけでもなくホッとされたよう(と、われわれには言ってくれた)。
 最近、知ったのだが、米国では論文シェアが計算機・数学・生命科学で高く、一方、日本では化学・材料・物理のシェアは非常に高いが数学のシェアは低いらしい。「数学は分からない、苦手」と言われることが多いのは事実。大学での数学の授業がいけないのだろうかと反省しきり。
 数年前にフランスの数学者が京都賞を受賞した。研究内容は「説明しても分からないよ」という受賞者に、カルロス・ゴーンが「だって数学だろう。だったら分かるはずだ」と答えたことにいたく感動した。
 ほかの学問が、経験や曖昧模糊(あいまいもこ)とした約束事の上に成り立っているのに比べ、数学は言葉とルールが明確だ。すべてをきちんと説明しきれる唯一の学問であり、説明すれば誰にでも分かる。そういうことを皆が知っているフランスの文化が、ちょっとうらやましかった。
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by norikoosumi | 2006-03-05 10:32 | 河北新報往復書簡

無事に戻った手帳(河北新報2月26日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【オオスミより】
 年に数回海外出張するが、いまだにスーツケースが無くなった経験はない。
 ……とはいうものの、失敗もある。昨年五月にギリシャのサントリーニ島で学会があり、パリで共同研究先を訪問してから、さあ、初めてのギリシャ!というときに、運悪くアテネ空港のストライキにぶつかった。スーツケースは機内持ち込みにして(小さめのものにしておいたのは正解)、遅れた便でアテネまでたどり着く。
 さて、そこで分かったのは、その日乗り継ぎ便はどの航空会社もすべて欠航。翌朝の便もすべて満席だったが、夜行の船で渡るという選択肢は、どうしても避けたく(以前whale watchingのボートで船酔いした経験あり)、こっちの航空会社のカウンター、あっちのカウンターと長い列にそれぞれ並んでの交渉(なにせすべてにおいて能率の悪いこと……)。数時間かかって、ようやく明朝六時の飛行機の予約に成功し、メデタシ、メデタシ。
 ……のはずだった。が、翌朝目が覚めると、時計は六時を回っていた。こういうときにジタバタしても良いことは何もないと頭では分かっているが、きっと人から見たら「天才バカボン」に出てくる、足がモーレツに回転している様子、に近い状態なのではないかと想像する。とにかく、身支度を整え、スーツケースをパッキングし、空港で再度の交渉(涙)。Waiting listに載せてもらい、ドキドキしながらゲートのカウンターまで行って待った末、ようやく無事にサントリーニ島に着いた。メデタシ、メデタシ。
 ……が、学会二日目に手帳を無くしたことに気が付いた。これがないと、すべてのスケジュールが分からなくなる! やれやれ、アテネの朝、寝坊で仰天したために、手荷物に入れるのを忘れたらしい。仕方なくホテルにファクスを入れると、翌日「お預かりしております」という返信が届いた。
 手帳はその後、持ち主とは別行動で、海を渡って無事に戻ってきた。頼もしいヤツだ。余分な出費は約七千円であったが、安いと思うべきだろう。
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by norikoosumi | 2006-03-05 10:29 | 河北新報往復書簡

迷子のスーツケース(河北新報2月19日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【コタニより】
 研究集会で二週間イギリスのダーラムに滞在した。
 今回の旅のエピソードはlost suitcase。到着空港でスーツケースがでてこない。実は、スーツケースが迷子になるのはこれが四回目。慣れたものでうろたえたりはしない。万が一に備えて、絶対なくしたくない論文と計算ノートは手荷物の中。
 スーツケースは航空会社が発見した後に宿泊先まで配達してくれるので、むしろラッキー!なのだ。というわけで、よれよれのスエットとサンダルばきで手荷物を提げ(日曜の朝のお父さんみたいな格好だが、これで飛行機に乗った)、目的地のダーラム大学グレイカレッジにたどり着いた。
 ありがたいことに、数学者は皆がよれよれの服装なので、染み付きスエットに穴あきジーンズの私も一向に目立たない。到着早々、自慢げにlost suitcaseの話題を提供するが、くやしいことに皆が同じようなエピソードを披露する。どうやら日常茶飯事らしい。
 翌朝十一時、スーツケースが無事にグレイカレッジに配達され、やはりホッとする。日曜日のお父さん姿から、華麗なコスチューム(?)に変身した私を見て、皆が「スーツケースみつかったんだね」と言う。やっぱり、目立っていたのだろうか、あのよれよれTシャツ。
 四回目の今は「ラッキー」と思えるが、初体験のときはパニックになった。あれはまだ博士課程一年生のとき。そのころはスーツケースがなくなる事態に備えて、「商売道具(=論文と計算ノート)は手荷物に」などという知恵はない。
 「きっと出てくるよ」というホスト教授の慰めも耳に入らず、講演原稿を作り直してやっと眠りに着いたのを覚えている。ああ、あれから二十年余り。たくましくなった。二回目の体験では、けしからんと腹をたて、三回目はよくあること、四回目はラッキーと思えるようになったのだから。
 ちなみに私は貴重品をなくすほうも経験豊かで、テキパキと手続きを取れるが、これは全く自慢にはならない。
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by norikoosumi | 2006-03-05 10:24 | 河北新報往復書簡

私のクローンはできるか?(河北新報2月12日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【オオスミより】
コタニ先生の書簡を読んで、別の映画『シックス・デイ』を思い出した。アーノルド・シュワルツネッガー主演のSF映画だ。バイオ技術の進歩により、愛玩するペットのクローンが作れることが当たり前になった近未来の設定。ヒトのクローンを作ることを禁止する「6d法」(神が天地を創造し人を作ったのが6日目というキリスト教世界観に基づく)が破られて、主人公アダムが帰宅すると「もう一人の自分」が家族とともに誕生日を祝っている、というシーンから物語は始まる。

生物学的には「一卵性双生児」は互いに互いのクローンだ。現在の定義では、クローンとは「同じDNA組成を持つ個体」ということになっている。ただし、現実にはもっと複雑な違いがあって、例えば、可愛い三毛猫のミケちゃんとまったく同じ三毛模様のクローン猫を作ることは難しい。なぜなら、三毛猫の模様を決定する色素の遺伝子のスイッチは、皮膚の細胞の1個1個でランダムに「不活性化」されている。つまり、その遺伝子のスイッチがオンになったりオフになったりするのが遺伝的に規定されておらず、仮にクローンを作っても、三毛猫の模様は予測不可能というわけだ。もちろん、一卵性双生児の方達は同じ個体とはみなせない。生まれてからの環境にどんな風に曝されるかには、DNAで決まらない不確定要素が多々ある。

脳の中では絶え間なく経験、すなわち環境との相互作用によって書き換えが行われている。つまり生物学的には、ニューロン間の連結であるシナプスが新しくできたり、強固になったり、つなぎ替えられたりする。だから、私の生物学的脳を使って考えると、再生するにせよ、何かデバイスを植え込むにせよ、「私とまったく同じ脳」を作ることは天文学的に低い確率としか思えない。もし、そういう「私の脳」を持った人間がいたら、それは「私」とイコールだと認めても構わないが、私にはその確率が「ほぼあり得ない」と感じられるので、私と同じクローンや同じ思考回路を持つロボットは「あり得ない」と思うのだ。
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by norikoosumi | 2006-02-12 17:18 | 河北新報往復書簡

ロボットは人間か?(河北新報2月5日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【コタニより】
「ロボットは生き物か」ではなく「ロボットは人間か」という質問をすべきであった.

アシモフの「バイセンティニアルマン」は「自由」を求めたロボットの話. 「自由の概念を理解し,かつ自由を欲するに足る十分に進んだ意識を有するいかなる物体も,自由を享受する権利がある」に痛く感動し,また固執してしまったのは,やはり,数学という学問の本質が,「概念」を創り出すことにあるからかもしれない. 
人間の本質である「自由意志」は実際には産まれてから積み重ねた経験の記憶に支配された化学反応にすぎない.(正しいだろうか?)クリックいわく「あなたの喜びやあなたの悲しみ,あなたの思い出やあなたの野望,あなたの個人的なアイデンティティの感覚や自由意志が,実は神経細胞とそれに関した分子からなる膨大な集合の作用以上のなにものでもない.」物質の化学反応が脳,もしくは人間のすべてであるとしたら,いつの日かすべては人工的に構成できる.そのとき,何をもって生き物,もしくは人間というのか.

交通事故で全身が人工的な物質に置き換えられても,脳が残れば私は私であると感じるだろう.更に,脳に蓄積された全ての記憶を人工知能に移し変えれば,この人口知能は私と全く同じ思考パターンを持ち,多分,鍋を焦がし,ニンジンは食べられず,「本質的には」と言う口癖があるだろう.そして,人間の学習能力が過去の経験に基づいているのであれば,この「私」は,これからも,これまでの私が学習するのと同じパターンで経験から学び,私らしい「個性」を展開していくだろう.全くのところ,実に私らしい「自由」な選択をこれからもするに違いない.

仮に幻影であっても,一連の化学反応の繋がりに「自由意志」という名前を与え,それこそが人間を他の生物から際立たせているのであれば,そのような「自由意志」を持った人工知能を「人間」と考えるのは自然ではないか.実は,脳の専門家のオオスミ先生に,前から聞いてみたかったのだ.
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by norikoosumi | 2006-02-12 17:16 | 河北新報往復書簡

ロボットは生き物か?(河北新報1月29日掲載『前略早々 博士から博士へ』

【オオスミより】
 ○月×日、いつものワインバーで議論になった。アルコールの影響により、何故その話題になったのかが不明なのだが、アイザック・アシモフの小説の話になった。正確に言うと、私は原作を読んでいなくて、映画「アンドリュー」を見ただけだが、「ロボットは生き物か?」という議論になった。
 コタニ「もし、将来ロボットが自分を再生することができて、人の心の痛みを感じたりすることができるようになったら、あなたはそのロボットを生き物と見なす?」
 オオスミ「うーん、私にとっての生物は、四十億年前に誕生してから生物としてのやり方で綿々とつながって現在に至っているので、そのロボットを生き物と見なすのは無理かも」
 コタニ「どうして? そうなったら、単に金属か、有機物かの違いでしかないんじゃないの?」
 オオスミ「ううん、金属か有機物かということよりも、私にとっての∧生き物∨は、親があって、受精によって次の世代の子供ができて、そういう定義に当てはまらないと無理かも。でももちろん、人間そっくりだったり、下手したら人間より賢かったりするロボットとも、仲良く暮らしたいとは思うけどね」
 コタニ「えっと、子供が作れないと<生き物>ではないわけ?」
 オオスミ「ううん、そうじゃなくて、<種>としては生き物とみなされないと…。第一、そんなロボットできるころまで、私は生きていないからねえ…」
 コタニ「そうじゃなくて、<思考実験>としてどうか、ってことなんだけど」
 こんな感じのやりとりを恐らく三巡くらいしただろうか。カウンターの向こうにいるワインバーの店主は、こういう会話には近寄らない? 酔っぱらいの議論というのはいつも堂々巡りだと再確認しているだろう。
 コタニ先生に比べると、どっぷり「発生生物学」やら「神経発生学」やらにつかっている私には、長年の間にしみついた「生き物」というイメージがあまりにも壊しがたいものになっていて、<思考実験>の自由度が低いのかもしれない。ところで、お掃除ロボットなら、今すぐにでもお世話になりたいなあ。
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by norikoosumi | 2006-02-06 20:42 | 河北新報往復書簡

数学はロマンチック(2006年1月22日河北新報『前略早々 博士から博士へ』

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【コタニより】
 何度も泣いちゃいましたか。「やっぱりオオスミ先生は熱い人なんだ」
 私は一箇所だけ。お手伝いさんが、完全数を発見したときの「けれど仕方ないではないか、私は発見したのだから」は、頭の中でなんどもこだまして響いた。胸のうちで静かに燃える発見の喜びをよく表しているよね。
 博士の専門は整数論。数学の中でもっとも純粋で美しい分野だ。誰でも知っている整数1、2、3…に導かれて、人間の想像力のみによって築き上げられた荘厳な世界。実際に手で触ることも、見ることもできない知能の中にだけ存在する世界が、これほど堅固で整然としているのを思うと、確かに「神さまがどこかに書いていたものを発見しているだけ」という気持ちになる。
 三百五十年続いたフェルマーの定理が一九九五年にワイルスによって解決されたことは有名だが(だろうか?)、単純な方程式の裏に、素数たちの奏でる変奏曲が隠れている。随分と抽象的に聞こえるかもしれないし、抽象的であるが故に数学を愛する人もいる。しかし、博士にとって「素数」が慈しむ対象であったのと同じように、多くの数学者にとって数式の表す世界は、確かな手触りを持って実在している。
 オオスミ先生、加藤和也『解決!フェルマーの最終定理』(日本評論社)読んでみて。絶対泣けるから。数学はロマンチックなのですよ。
 小川洋子が、江夏を横軸に持ってきたのは、決して背番号が完全数だからという理由だけではないだろう。実は私も江夏と北ノ湖が大好きだった(北ノ湖>江夏だけど)。
 天才と言われた人たちだが、むしろ、自分は努力に支えられているという自信に胸を張っていた。自信というよりは謙虚な誇りを持っている姿が好きだった。相撲・野球に対する彼らの姿には、数字に仕えるような博士の姿勢と共通のものがある。
 オオスミ先生、ぜひ映画ご一緒しましょう。その前に二十七日にせんだいメディアテークであるサイエンス・カフェにも遊びに来て。
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by norikoosumi | 2006-01-22 15:31 | 河北新報往復書簡