いろいろな原稿を載せる予定です
by norikoosumi
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科学者コミュニティーの自浄作用(毎日新聞2月11日掲載「論点」元原稿)

 科学者にとって、論文作成は一つの節目である。多くの大学院生にとっては、研究職というキャリアの道を進む上で超えなければならないハードルであり、国民の税金をもとにした資金で研究を行う研究者にとっては、その報告を兼ねた大切な義務ともいえる。
 論文はいろいろな形で発表されるが、一般的な生物系の分野において最も重要なのは「原著論文」と言われるものである。権威ある国際的な専門誌に原稿を投稿し、二、三名の専門家による査読を受け、その批判に答えるために、場合によっては、さらに追加の実験を行って改訂稿を提出する。このような「査読制」は論文の価値の客観性を高めるために始まったことではあるが、逆に言うと、論文は二、三名の査読者と編集者を満足させることによって世に出ることになる。
 科学研究費の多くが競争的資金になりつつある現在では、いかに業績を上げるかが勝負の分かれ目になる。生物系研究者の業績評価に、論文の掲載された雑誌の格付け(インパクトファクター:IP)や、論文の被引用件数という客観的数字が導入されるようになって、ゆがみやひずみが生じてきている気がする。以前よりも、IPの高い雑誌に投稿すべきであるというプレッシャーが強くなっているのだ。当然のことながら、高いIPの雑誌に論文を通すことは、より厳しい査読者の要求を満足させなければならないことを意味する。
 生物学発展の過程において、論文作成の「お作法」がそれぞれの専門分野で確立していった。例えば、ある生命現象に何らかの物質が関わることを証明するのであれば、その物質の局在とともに、必要条件、十分条件を合わせて示すことが必要である。お作法が確立したということは、その分野が成熟したことを意味するが、逆にお作法に則ることによって、あたかも何かを証明したように見せるのが可能なことを意味する。最近15年ほどの間のコンピュータとソフトの進歩により、生データは多くの場合ディジタル化されるようになった。これは、論文作成の労力削減に大いに貢献したが、同時にデータの捏造・改竄も容易にしたことは否めない。
 普通の研究者はデータの捏造や改竄はしない。自分の見つけた新しい発見を、他の人から見て客観的に正しいと思ってもらうために、何度も再現性があるかどうかをまず確かめる。問題なのは、自ら立てた仮説に囚われていて功名心に焦るボスと、ボスの気に入るデータを見せれば自分の業績や出世に繋がると分かっている実行部隊の研究者の利害が一致するケースである。極端な場合、ボスのチェックは甘くなり、「行け行け、ドンドン」と捏造論文が量産される。
 日頃、大学院生や博士研究員には、「N(例数)はいくつ? 定量してみた? 他の対照は取ってみた?」と尋ねている。つくられたデータは、細かくチェックすれば発見できるものだし、怪しければ生データに立ち戻ればよい。未発表データが外部にもれないようにと、研究室内やグループ内で厳戒令を敷くのは、研究の現場に必要以上のプレッシャーをかけ、不正行為が生じる温床となるように思う。研究室の中や周囲の研究室との風通しが良ければ、複数の他人の目が届き、自浄作用が働くものだ。
 論文は科学者にとっての大切な「作品」である。手塩に掛けて、誠意を込めて生み出すものである。良い論文とは、本来、掲載された雑誌の格付けで決まるものではない。また、新しい概念を打ち出すようなオリジナルな論文であれば、発表されて数年の間の被引用件数が少ないこともあるだろう。科学者コミュニティーは自らの倫理観と自尊心にもとづき、不正行為を防がなければならない。さもないと、非専門家により、研究の中身ではなく数値化された業績によって評価され、それはさらなる不正行為を生むもとになる。同時に、科学の世界は必ずしも市場原理に則ったものではないことを、社会は認識し、許容すべきである。過度の競争は良い科学を醸成することには繋がらない。

註:新聞掲載版とは若干異なります。
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by norikoosumi | 2006-02-12 17:23

私のクローンはできるか?(河北新報2月12日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【オオスミより】
コタニ先生の書簡を読んで、別の映画『シックス・デイ』を思い出した。アーノルド・シュワルツネッガー主演のSF映画だ。バイオ技術の進歩により、愛玩するペットのクローンが作れることが当たり前になった近未来の設定。ヒトのクローンを作ることを禁止する「6d法」(神が天地を創造し人を作ったのが6日目というキリスト教世界観に基づく)が破られて、主人公アダムが帰宅すると「もう一人の自分」が家族とともに誕生日を祝っている、というシーンから物語は始まる。

生物学的には「一卵性双生児」は互いに互いのクローンだ。現在の定義では、クローンとは「同じDNA組成を持つ個体」ということになっている。ただし、現実にはもっと複雑な違いがあって、例えば、可愛い三毛猫のミケちゃんとまったく同じ三毛模様のクローン猫を作ることは難しい。なぜなら、三毛猫の模様を決定する色素の遺伝子のスイッチは、皮膚の細胞の1個1個でランダムに「不活性化」されている。つまり、その遺伝子のスイッチがオンになったりオフになったりするのが遺伝的に規定されておらず、仮にクローンを作っても、三毛猫の模様は予測不可能というわけだ。もちろん、一卵性双生児の方達は同じ個体とはみなせない。生まれてからの環境にどんな風に曝されるかには、DNAで決まらない不確定要素が多々ある。

脳の中では絶え間なく経験、すなわち環境との相互作用によって書き換えが行われている。つまり生物学的には、ニューロン間の連結であるシナプスが新しくできたり、強固になったり、つなぎ替えられたりする。だから、私の生物学的脳を使って考えると、再生するにせよ、何かデバイスを植え込むにせよ、「私とまったく同じ脳」を作ることは天文学的に低い確率としか思えない。もし、そういう「私の脳」を持った人間がいたら、それは「私」とイコールだと認めても構わないが、私にはその確率が「ほぼあり得ない」と感じられるので、私と同じクローンや同じ思考回路を持つロボットは「あり得ない」と思うのだ。
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by norikoosumi | 2006-02-12 17:18 | 河北新報往復書簡

ロボットは人間か?(河北新報2月5日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【コタニより】
「ロボットは生き物か」ではなく「ロボットは人間か」という質問をすべきであった.

アシモフの「バイセンティニアルマン」は「自由」を求めたロボットの話. 「自由の概念を理解し,かつ自由を欲するに足る十分に進んだ意識を有するいかなる物体も,自由を享受する権利がある」に痛く感動し,また固執してしまったのは,やはり,数学という学問の本質が,「概念」を創り出すことにあるからかもしれない. 
人間の本質である「自由意志」は実際には産まれてから積み重ねた経験の記憶に支配された化学反応にすぎない.(正しいだろうか?)クリックいわく「あなたの喜びやあなたの悲しみ,あなたの思い出やあなたの野望,あなたの個人的なアイデンティティの感覚や自由意志が,実は神経細胞とそれに関した分子からなる膨大な集合の作用以上のなにものでもない.」物質の化学反応が脳,もしくは人間のすべてであるとしたら,いつの日かすべては人工的に構成できる.そのとき,何をもって生き物,もしくは人間というのか.

交通事故で全身が人工的な物質に置き換えられても,脳が残れば私は私であると感じるだろう.更に,脳に蓄積された全ての記憶を人工知能に移し変えれば,この人口知能は私と全く同じ思考パターンを持ち,多分,鍋を焦がし,ニンジンは食べられず,「本質的には」と言う口癖があるだろう.そして,人間の学習能力が過去の経験に基づいているのであれば,この「私」は,これからも,これまでの私が学習するのと同じパターンで経験から学び,私らしい「個性」を展開していくだろう.全くのところ,実に私らしい「自由」な選択をこれからもするに違いない.

仮に幻影であっても,一連の化学反応の繋がりに「自由意志」という名前を与え,それこそが人間を他の生物から際立たせているのであれば,そのような「自由意志」を持った人工知能を「人間」と考えるのは自然ではないか.実は,脳の専門家のオオスミ先生に,前から聞いてみたかったのだ.
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by norikoosumi | 2006-02-12 17:16 | 河北新報往復書簡

ロボットは生き物か?(河北新報1月29日掲載『前略早々 博士から博士へ』

【オオスミより】
 ○月×日、いつものワインバーで議論になった。アルコールの影響により、何故その話題になったのかが不明なのだが、アイザック・アシモフの小説の話になった。正確に言うと、私は原作を読んでいなくて、映画「アンドリュー」を見ただけだが、「ロボットは生き物か?」という議論になった。
 コタニ「もし、将来ロボットが自分を再生することができて、人の心の痛みを感じたりすることができるようになったら、あなたはそのロボットを生き物と見なす?」
 オオスミ「うーん、私にとっての生物は、四十億年前に誕生してから生物としてのやり方で綿々とつながって現在に至っているので、そのロボットを生き物と見なすのは無理かも」
 コタニ「どうして? そうなったら、単に金属か、有機物かの違いでしかないんじゃないの?」
 オオスミ「ううん、金属か有機物かということよりも、私にとっての∧生き物∨は、親があって、受精によって次の世代の子供ができて、そういう定義に当てはまらないと無理かも。でももちろん、人間そっくりだったり、下手したら人間より賢かったりするロボットとも、仲良く暮らしたいとは思うけどね」
 コタニ「えっと、子供が作れないと<生き物>ではないわけ?」
 オオスミ「ううん、そうじゃなくて、<種>としては生き物とみなされないと…。第一、そんなロボットできるころまで、私は生きていないからねえ…」
 コタニ「そうじゃなくて、<思考実験>としてどうか、ってことなんだけど」
 こんな感じのやりとりを恐らく三巡くらいしただろうか。カウンターの向こうにいるワインバーの店主は、こういう会話には近寄らない? 酔っぱらいの議論というのはいつも堂々巡りだと再確認しているだろう。
 コタニ先生に比べると、どっぷり「発生生物学」やら「神経発生学」やらにつかっている私には、長年の間にしみついた「生き物」というイメージがあまりにも壊しがたいものになっていて、<思考実験>の自由度が低いのかもしれない。ところで、お掃除ロボットなら、今すぐにでもお世話になりたいなあ。
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by norikoosumi | 2006-02-06 20:42 | 河北新報往復書簡