いろいろな原稿を載せる予定です
by norikoosumi
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私のクローンはできるか?(河北新報2月12日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【オオスミより】
コタニ先生の書簡を読んで、別の映画『シックス・デイ』を思い出した。アーノルド・シュワルツネッガー主演のSF映画だ。バイオ技術の進歩により、愛玩するペットのクローンが作れることが当たり前になった近未来の設定。ヒトのクローンを作ることを禁止する「6d法」(神が天地を創造し人を作ったのが6日目というキリスト教世界観に基づく)が破られて、主人公アダムが帰宅すると「もう一人の自分」が家族とともに誕生日を祝っている、というシーンから物語は始まる。

生物学的には「一卵性双生児」は互いに互いのクローンだ。現在の定義では、クローンとは「同じDNA組成を持つ個体」ということになっている。ただし、現実にはもっと複雑な違いがあって、例えば、可愛い三毛猫のミケちゃんとまったく同じ三毛模様のクローン猫を作ることは難しい。なぜなら、三毛猫の模様を決定する色素の遺伝子のスイッチは、皮膚の細胞の1個1個でランダムに「不活性化」されている。つまり、その遺伝子のスイッチがオンになったりオフになったりするのが遺伝的に規定されておらず、仮にクローンを作っても、三毛猫の模様は予測不可能というわけだ。もちろん、一卵性双生児の方達は同じ個体とはみなせない。生まれてからの環境にどんな風に曝されるかには、DNAで決まらない不確定要素が多々ある。

脳の中では絶え間なく経験、すなわち環境との相互作用によって書き換えが行われている。つまり生物学的には、ニューロン間の連結であるシナプスが新しくできたり、強固になったり、つなぎ替えられたりする。だから、私の生物学的脳を使って考えると、再生するにせよ、何かデバイスを植え込むにせよ、「私とまったく同じ脳」を作ることは天文学的に低い確率としか思えない。もし、そういう「私の脳」を持った人間がいたら、それは「私」とイコールだと認めても構わないが、私にはその確率が「ほぼあり得ない」と感じられるので、私と同じクローンや同じ思考回路を持つロボットは「あり得ない」と思うのだ。
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# by norikoosumi | 2006-02-12 17:18 | 河北新報往復書簡

ロボットは人間か?(河北新報2月5日掲載「前略早々 博士から博士へ」)

【コタニより】
「ロボットは生き物か」ではなく「ロボットは人間か」という質問をすべきであった.

アシモフの「バイセンティニアルマン」は「自由」を求めたロボットの話. 「自由の概念を理解し,かつ自由を欲するに足る十分に進んだ意識を有するいかなる物体も,自由を享受する権利がある」に痛く感動し,また固執してしまったのは,やはり,数学という学問の本質が,「概念」を創り出すことにあるからかもしれない. 
人間の本質である「自由意志」は実際には産まれてから積み重ねた経験の記憶に支配された化学反応にすぎない.(正しいだろうか?)クリックいわく「あなたの喜びやあなたの悲しみ,あなたの思い出やあなたの野望,あなたの個人的なアイデンティティの感覚や自由意志が,実は神経細胞とそれに関した分子からなる膨大な集合の作用以上のなにものでもない.」物質の化学反応が脳,もしくは人間のすべてであるとしたら,いつの日かすべては人工的に構成できる.そのとき,何をもって生き物,もしくは人間というのか.

交通事故で全身が人工的な物質に置き換えられても,脳が残れば私は私であると感じるだろう.更に,脳に蓄積された全ての記憶を人工知能に移し変えれば,この人口知能は私と全く同じ思考パターンを持ち,多分,鍋を焦がし,ニンジンは食べられず,「本質的には」と言う口癖があるだろう.そして,人間の学習能力が過去の経験に基づいているのであれば,この「私」は,これからも,これまでの私が学習するのと同じパターンで経験から学び,私らしい「個性」を展開していくだろう.全くのところ,実に私らしい「自由」な選択をこれからもするに違いない.

仮に幻影であっても,一連の化学反応の繋がりに「自由意志」という名前を与え,それこそが人間を他の生物から際立たせているのであれば,そのような「自由意志」を持った人工知能を「人間」と考えるのは自然ではないか.実は,脳の専門家のオオスミ先生に,前から聞いてみたかったのだ.
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# by norikoosumi | 2006-02-12 17:16 | 河北新報往復書簡

ロボットは生き物か?(河北新報1月29日掲載『前略早々 博士から博士へ』

【オオスミより】
 ○月×日、いつものワインバーで議論になった。アルコールの影響により、何故その話題になったのかが不明なのだが、アイザック・アシモフの小説の話になった。正確に言うと、私は原作を読んでいなくて、映画「アンドリュー」を見ただけだが、「ロボットは生き物か?」という議論になった。
 コタニ「もし、将来ロボットが自分を再生することができて、人の心の痛みを感じたりすることができるようになったら、あなたはそのロボットを生き物と見なす?」
 オオスミ「うーん、私にとっての生物は、四十億年前に誕生してから生物としてのやり方で綿々とつながって現在に至っているので、そのロボットを生き物と見なすのは無理かも」
 コタニ「どうして? そうなったら、単に金属か、有機物かの違いでしかないんじゃないの?」
 オオスミ「ううん、金属か有機物かということよりも、私にとっての∧生き物∨は、親があって、受精によって次の世代の子供ができて、そういう定義に当てはまらないと無理かも。でももちろん、人間そっくりだったり、下手したら人間より賢かったりするロボットとも、仲良く暮らしたいとは思うけどね」
 コタニ「えっと、子供が作れないと<生き物>ではないわけ?」
 オオスミ「ううん、そうじゃなくて、<種>としては生き物とみなされないと…。第一、そんなロボットできるころまで、私は生きていないからねえ…」
 コタニ「そうじゃなくて、<思考実験>としてどうか、ってことなんだけど」
 こんな感じのやりとりを恐らく三巡くらいしただろうか。カウンターの向こうにいるワインバーの店主は、こういう会話には近寄らない? 酔っぱらいの議論というのはいつも堂々巡りだと再確認しているだろう。
 コタニ先生に比べると、どっぷり「発生生物学」やら「神経発生学」やらにつかっている私には、長年の間にしみついた「生き物」というイメージがあまりにも壊しがたいものになっていて、<思考実験>の自由度が低いのかもしれない。ところで、お掃除ロボットなら、今すぐにでもお世話になりたいなあ。
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# by norikoosumi | 2006-02-06 20:42 | 河北新報往復書簡

数学はロマンチック(2006年1月22日河北新報『前略早々 博士から博士へ』

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【コタニより】
 何度も泣いちゃいましたか。「やっぱりオオスミ先生は熱い人なんだ」
 私は一箇所だけ。お手伝いさんが、完全数を発見したときの「けれど仕方ないではないか、私は発見したのだから」は、頭の中でなんどもこだまして響いた。胸のうちで静かに燃える発見の喜びをよく表しているよね。
 博士の専門は整数論。数学の中でもっとも純粋で美しい分野だ。誰でも知っている整数1、2、3…に導かれて、人間の想像力のみによって築き上げられた荘厳な世界。実際に手で触ることも、見ることもできない知能の中にだけ存在する世界が、これほど堅固で整然としているのを思うと、確かに「神さまがどこかに書いていたものを発見しているだけ」という気持ちになる。
 三百五十年続いたフェルマーの定理が一九九五年にワイルスによって解決されたことは有名だが(だろうか?)、単純な方程式の裏に、素数たちの奏でる変奏曲が隠れている。随分と抽象的に聞こえるかもしれないし、抽象的であるが故に数学を愛する人もいる。しかし、博士にとって「素数」が慈しむ対象であったのと同じように、多くの数学者にとって数式の表す世界は、確かな手触りを持って実在している。
 オオスミ先生、加藤和也『解決!フェルマーの最終定理』(日本評論社)読んでみて。絶対泣けるから。数学はロマンチックなのですよ。
 小川洋子が、江夏を横軸に持ってきたのは、決して背番号が完全数だからという理由だけではないだろう。実は私も江夏と北ノ湖が大好きだった(北ノ湖>江夏だけど)。
 天才と言われた人たちだが、むしろ、自分は努力に支えられているという自信に胸を張っていた。自信というよりは謙虚な誇りを持っている姿が好きだった。相撲・野球に対する彼らの姿には、数字に仕えるような博士の姿勢と共通のものがある。
 オオスミ先生、ぜひ映画ご一緒しましょう。その前に二十七日にせんだいメディアテークであるサイエンス・カフェにも遊びに来て。
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# by norikoosumi | 2006-01-22 15:31 | 河北新報往復書簡

映画、見に行く?(2006年1月15日河北新報『前略早々 博士から博士へ』)

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【オオスミより】
 皆さん、大学の先生はいつも大学にいると思うなかれ。実はかなりの頻度で出張がある。私の研究分野は「生物学」の中でも「脳」を対象とし、その「発生発達」を科学しているのだが、関係する学会(研究の発表会)が年間六つほども。また、研究はポケットマネーではなく税金をもとにしているので、その報告会も多数。他大学に呼ばれてセミナーや特別講義を行うこともある。さらには、政府関係の委員会やら学会の理事会やら……と、さまざまな理由で出張しなければならない。
 さて、先日「映画も公開予定なんだけど、文庫化されたから、ぜひ!」とコタニ先生に言われ、『博士の愛した数式』(小川洋子著、新潮文庫)を読んだ。東京出張の帰りの新幹線で読み始め、そのまま帰宅後に夜更かしして読み終わった。こんなに一気に本を読んだのは何カ月ぶりだろう。
 登場人物といえば、新しい記憶を持つことのできない数学者の「博士」、離れに住まう博士の家政婦として雇われる「私」と、博士に√(ルート)という名前を付けてもらった、十歳になる「私」の息子、そして母屋に住む博士の義理の妹の未亡人くらいだ。その少ない登場人物をつなぐのはさまざまな美しい数式と、それとおよそ不釣り合いに見える元タイガースの「江夏」である。大ベストセラーなので私が書評をコメントする必要はないのだが、小川さんの筆致はどの人物に対しても優しく、私の涙腺は何度もゆるんだ。その意味では新幹線で読むには不適当であった。
 さらに「数字」や「数式」に対しても愛しさと畏怖があふれている。「素数」は知っていたが、「完全数」や「三角数」、はたまた「友愛数」などは知らなかった。さまざまな数字に「意味」や「性格」が隠されている。数学がこんなにロマンチックだとは思わなかったなあ……。さすが、コタニ先生が勧めるだけのことはある。中学くらいのときにこの本を読んだら、数学に対する気持ちがずいぶんと違ったことだろう。ねえコタニさん、映画、一緒に見に行く?
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# by norikoosumi | 2006-01-22 15:28 | 河北新報往復書簡

往復書簡、してみる?(2006年1月8日河北新報『前略早々 博士から博士へ』)

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【オオスミより】
 研究室のコンピュータの電子メールフォルダに残っている記録によれば、コタニさんという、今では大の仲良しかつ飲み友達と初めてメールを交わしたのは2003年5月21日ということらしい。学内のとある委員会でご一緒したのが知り合ったきっかけだが、「突然ですが、コタニさんはお酒飲まれます?」とメールで聞いてみた。返事は「もちろん飲みます! もしオオスミセンセイがお忙しくないとき(きっとお忙しいでしょうが)あれば、一度お茶かお食事でもしたいですね」。
 だが、記念すべき最初の飲み会がどこだったか覚えていない。とっても楽しくて面白い方だから、またご一緒したいな・・・という印象があったはずで、そうでなければ交流は続いていなかっただろう。一番最初のときには「議論好き」であることもまだ知らなかった(まだ猫をかぶっていたと思われる)。泥臭い生物学の分野で研究し、高校で教わった微分も積分も普段は使わなくなっている私から見たら、大学の「数学科」で教鞭をとっているというだけで尊敬の対象なのだ。



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【コタニより】
学内のとある委員会で,大隅典子という名前を見た瞬間,中学校のとき有名だった同名の女性を思い出した.女性にして生徒会会長,私のように何をやっても「ガンちゃんダメね〜」と世話をやかれる側だった人間からみると輝く存在だった.おそるおそる聞いてみると同一人物.それ以来,「おいしい物食べた〜い」「ワイン飲みた〜い」というとオオスミ先生がさっと段取ってくれる.最初の「ご飯」でオオスミ邸に招かれ,料理の本がズラっと並ぶ本棚に圧倒.どうせそのうちこの「往復書簡」で明らかにされてしまうだろうが,私は料理をするには「食の欲」が欠けているそうだ.本に没頭して何度鍋をこがしたことか.最近,数学もようやく進化して,生物とか脳のように複雑なものも扱える道具が揃ってきた.高校で習った暗記型生物は嫌いだったが,人間の脳の数理には興味がある.この往復書簡で,専門家のオオスミ先生に皆さんと一緒に色々教わろうという魂胆なのだ.
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# by norikoosumi | 2006-01-22 15:10 | 河北新報往復書簡